「なんで黒糖烏龍ミルクティー買わせてくれなかったのー」
「別にお腹空いてなかったでしょ」
「自分で買うのにー」
「いいから、ほら寒くなってきたし帰るよ」
紙袋を二つ持った怜が、片手で楓の手を軽く引っ張りながら言った。
先ほど確認したスマホの時計は十六時になっていた。
太陽はもうとっくに低い位置まで傾いていて、空はオレンジ色に輝いていた。
「もう帰っちゃうの」
「だってもう買い物もしたし、することないでしょ」
楽しい時間が終わってしまうような気がして、怜の言っていることは分かるのに反発したい気分だった。
欲しくもないタピオカドリンクを買おうかなと言ったのも、きっと見抜かれていた。
それでもいつもだったら買いなよ、と言ってくれるのに。
軽く楓をあしらって、なんでもないような顔をしてまっすぐ駐車場に向かう怜を見て、少しだけ寂しくなる。
でもこれ以上どうにもならないわがままを言って困らせたくないと思い、怜についていく。
帰りの車でも取り止めのない話をした。
やっぱり怜の仕事について少しでも理解したくて、色々と質問した。
怜は分かりやすい言葉で教えてくれて、最後には意外と面白そうだなと思った。
「営業にも転用できるよ」と教えてもらい、スマホに怜の言うことを必死にメモする楓に、怜は「酔うからやめな、あとでちゃんと教えてあげるよ」と笑った。
「楓、靴は脱がないで。また出るから」
「え?」
車を返して家に戻ると、玄関に荷物をゆっくり置いた怜が、壁に手をついてローファーを脱ごうとしていた楓に言った。
てっきりこのまま家で夕飯を食べるものだと思い込んでいた楓は、冷蔵庫の中身を思い出すのに必死で反応が遅れる。
「荷物置きにきただけだから。行くよ」
「え、は、はい」
玄関の鍵を閉める怜の横顔をちらりと見た。
そうなんだ、終わりじゃないんだ。
それが嬉しくて怜の腕に顔を擦り付けると、怜がふっと笑って握りしめた手の力を強めた。
「…あのぅ、なんだかすごく高そうな…」
「三十九階だからね」
「その高いじゃない…」
「誕生日にディナー連れてきてもらって、お金のことなんか言わなくていいの」
怜がしらっとした顔で、運ばれてきた葡萄のスパークリングドリンクをごくりと飲んだ。
電車に乗って恵比寿に移動し、ガーデンプレイスのタワーのエレベーターに乗り込んだ瞬間から、おや?という気配を感じていた。
スタスタとまっすぐ楓の手を引いて進む怜が、「予約した蓮見です」と店員に言って席に案内された。
だってだって、さっきドリンクメニューに書いてあったけど、フランス産洋梨ジュースが千円したよ?
そう言おうとするも、静かでクラッシックが聞こえる店内で口に出す勇気はなかった。
「…誰かと来たことあるの?」
「無いに決まってんじゃん」
「…わざわざ、私のために連れてきてくれたの?」
怜は「そうだけど?」と言って仕方なさそうに笑った。
テーブルのすぐ隣には、ガラスの向こうに夜景が広がっている。
窓の外には無数の光が散らばっていて、まるで地面に星を撒いたみたいだと思って見ていた。そこで目の前からの視線に気づく。
「気に入った?」
「うん…今日プレゼント二つも買ってもらったのに」
「それとご飯は別でしょ」
怜がそう言って、優しく笑った。
前菜が運ばれてきて、「真鯛のカルパッチョ、柿とルッコラのサラダ、柑橘のヴィネグレットでございます」と店員が静かに説明をした。
白い大皿の上に薄く切られた真鯛が花びらのように並べられ、オレンジ色の柿と緑のルッコラが散りばめられていた。
「すごい、綺麗…!」
「…良かった」
写真を撮ろうとスマホを取り出すと、怜がゆっくりと言った。
二人でご飯に行ったことなど、何回もある。
こういうフレンチのお店が初めてなわけではない。
今まで付き合った人に、誕生日をお祝いしてもらったこともある。
でも、全てが、確実に違う。
「…ありがとう」
「ふ、どういたしまして」
もしかして、タピオカを買わせてくれなかったのは、このお店を予約してくれていたからだったのかな。
お腹いっぱいになったら食べれないでしょって、そういうことだったのかな。
怜に聞こうと思って顔を上げて、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
その顔が、優しくて、穏やかで、兄の顔なのに、兄じゃないみたいだった。
これが、彼氏の、怜ちゃんなんだ。
そう思うとたまらなくなって、胸がぎゅうっとなって、急いでスマホを仕舞った。
楓が撮り終わるまで食べるのを待ってくれているであろう怜を、これ以上待たせたくないと思ったからだ。
「お腹いっぱいだよー美味しかった!」
「それは良かった、俺も苦しい」
家に帰ってスリッパに履き替えると、足の裏がぐにゃりと歪む感覚がした。
思わずソファに勢いよく座った楓の背後で、怜がふっと笑った気がした。
「楓」
「んー?」
「誕生日おめでと」
そう言いながら楓の隣に座った怜が、紙袋を二つ差し出した。
一つは見覚えのあるブランドの化粧品サイズの小さな紙袋で、もう一つは白におしゃれな英語で店名らしきものがあしらわれたシンプルなものだった。
「えっ、えっ」
「こっちは元々渡そうと思って、ちょっと前に買ってあったんだよね」
怜がそう言ってシンプルな紙袋を先に楓に渡した。
まさか更に何か貰えるとは思っておらず、理解が追いつかないままに流されて受け取る。
「で、ちょっと流石にこのプレゼントは兄すぎるかなと思って、追加で買った」
「兄すぎるってなに?ていうか、シャネルじゃん…」
「今見る?中身」
「う、うん、ていうか待って、プレゼント、多、」
混乱したままの楓を気にもせず、怜は真顔で何事もなかったかのように話していく。
シンプルな紙袋の中には綺麗にラッピングされた白い厚みのある箱が入っていた。
重みのあるその箱を慎重に開けると、中からは丁寧に梱包されたティーカップとソーサーが二つずつ入っていた。
「かっ、可愛いー!!」
「良かった」
箱に同封されていたショップカードにはアンティークショップと書かれている。
楓はゆっくりとティーカップを手に取った。
真っ白ではなく、少しだけ生成りがかった柔らかな色のティーカップの縁は、花びらのようにゆるやかに波打ち、持ち手には蔦のような装飾が施されている。
光沢のある磁器ではなく、手の温度を吸い込むような優しい質感のカップに指先を滑らせると、釉薬のなめらかな凹凸が手のひらにじんわりと馴染む。
「イタリアのブランドらしいよ」
「…これ、怜ちゃんが選んだの?」
「そうだよ」
「…二つ、あるよ」
「楓のお菓子を一緒に食べる時にこういうのあったらいいかなって。楓、食器も可愛いの好きじゃん」
ここに引っ越してきた時は、真っ白の丸い皿しかなかった。
何が食べたいと聞けば、タイパがいいから牛丼がいいと言った。
その、怜が。
「…シャネルも…怜ちゃんが選んだの?」
「そうだよ。店員さんが、楓はブルベ?じゃないかって」
小さな白い箱を開けると、大仰にインナーペーパーが敷かれ、その上に恭しくつやりとした黒のリップが一本乗っていた。
カサリ、と上質なインナーペーパーが擦れる音が狭いソファーの間で小さく響く。
「…なんで、ブルベって分かったの?」
「写真見せたから。この色が似合うってことはブルベじゃないかとか何とか」
「…なんて言って見せたの?」
色が可愛いって何?と言っていたくせに。
そういうのはよく分からないみたいな顔をいつもするくせに。
プレゼントの箱が二つ、黒のチュールスカートに少しだけ埋まるように膝の上に置かれている。
それを見ながら質問を重ねる楓に、怜が淡々と答えていく。
「なんてって、そりゃ彼女って言うでしょ」
「…怜ちゃんはこういうの、苦手かなって思ってた」
箱をローテーブルにゆっくりと置いて、楓が言った。
いつもの楓の左側に怜が座って、楓の手元を見ている。
少しだけ覗き込むようにして合った視線の先では、怜が柔らかく口角を上げていた。
「俺はあんまりよく分かんないけど、楓は好きでしょ。化粧品もお皿も」
その言葉が耳に届いて、楓は勢いよく怜に抱きついた。
「うおっ」
背中にしがみつくように回した手の中には、お揃いになった怜のトレーナーがくしゃりと食い込んだ。
言いたいことは沢山あった。
でも溢れる感情に言葉が追いつかなくて、触れたい気持ちが抑えられなかった。
「…喜んでくれたなら何よりだよ」
胸元に顔をぴたりと寄せて黙っている楓の頭を、怜がそう言ってさらりと撫でた。
先ほどまで外気に晒されていたスウェット生地は少しだけ冷たくて、頭に乗った手は温かかった。
「怜ちゃん…」
「ん?」
一ミリの隙間もないくらいに近づきたかった。
顔を擦り寄せて手の力を強く込めると、怜の手も背中に回った。
「好き…」
スウェット生地に吸い込まれるように、怜の身体に入っていくように、漏らした言葉は消えていった。
怜は何も返事をしなかった。
代わりに背中に回った手が、ゆっくりと撫でるように優しく動いた。
「きょう、楽しかった…ありがとう…」
「うん、良かった」
こんなに怜と密着したのは、好きだと言った日以来だった。
あの時は心臓が激しく動いていて、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだったのに、今は全然違った。
穏やかな鼓動が、香りが、呼吸が、
その全てに近づきたい。
「…好き…」
言葉を尽くしても伝えられないこの気持ちが、どうにか分かって欲しかった。
いつものように、ふっと笑われるかなと思っていた。
けれど今日は、その音は聞こえなかった。
代わりに温かい手が、楓の背中をずっと撫でていた。



