「桃香さん、早く行きましょ!」
「なになに?あっ、楓ちゃん明日誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます!ランチ行きましょ!」
スタジオの中で余計なことを話される前に、と桃香の腕を引っ張って、休憩時間になると連れ出した。
昨日のうちに、藤子と桃香の三人のトークグループにメッセージを送り、ランチの約束を取り付けておいたのだ。
朝から顔を合わせるなり話したそうな桃香をなんとか抑え、午前のレッスンを終えると桃香の腕を組んで、藤子と決めていたランチのお店に移動した。
「ここ、絵画教室の先生から教えていただいたのよ」
「藤子さん絵画もやってるんですか!かっこよすぎぃ!」
スタジオから十分ほど歩いた先にある、古びた雑居ビルの二階。
外階段は少し急で、知らなければ通り過ぎてしまいそうな小さな看板が出ているだけだった。
楓が先頭に立って重たい木製の扉を開けると、ひんやりとした空気とコーヒーの香りが流れてくる。
「で?誕生日前日になんのご報告ぅ〜?昨日と明日、お休みだったよねぇ〜?」
「あら、そうなの?じゃあ今度お祝いしなくちゃね」
ランチメニューを決めるなり、桃香がテーブルに前のめりになった。
抑えきれていないにやけた顔は、もう内容を察していそうだった。
「…怜ちゃんと、…付き合いました…」
「ひゃー!!ちょっと待ってもっと騒げるカフェにすればよかった、声が抑えらんないよ私」
「おめでとう、良かったわねぇ」
忙しく顔を手で覆う桃香に対して、藤子は上品ににこりとしながら顔の前で両手を合わせた。
「いつ?どうやって?なんて言ったの?全部教えて」
「えっと、その前にちょっと、いいですか」
「なに?早く言って」
そわそわする桃香の前で、怜と昨日話したことを伝えた。
代官山スタジオの数人の社員には、飲み会などで機会があったら自分から伝えること、仲の良いパート職員にも自分から個人的に伝えること。
兄妹だということは、あまり外では大っぴらにしないで欲しいこと。
「オッケー、確かに変な勘違いされたら嫌だもんね」
「ありがとうございます」
「じゃあ今後はお兄ちゃんじゃなくて…なんて呼ぼう?怜ぴょんとか?」
「れいぴょん…?」
「だって怜ちゃんは楓ちゃん専用の呼び名じゃん!」
怜ぴょん、と呼ばれている姿を想像すると面白く、怜に伝えたらどうなるだろうと笑みが溢れる。
店員がやってきて、ランチセットについてきたサラダをテーブルに静かに置いた。
布のランチョンマットにうっすらとシワが寄って、テーブルに落ちた木漏れ日の影を柔らかく受け止めている。
「で?早く付き合った流れ。まず朝起きたところから」
「そこからやってたら終わんないですよ…」
「なに!?そんなに長いの!?」
藤子がニコニコしながら、水の入ったグラスを傾けた。
ランチがテーブルに置かれて、桃香と藤子の皿が空になった後も、話は終わらなかった。
それに気づいた楓が、慌てて自分のラザニアにフォークを突き立てていると、桃香が「ゆっくり食べていいよ、話は一旦休憩しよ」と声をかけた。
フォークの先で焼き目のついたチーズを割ると、中からトマトとミートソースの濃厚な層が現れて、ラザニアのつるりとした表面からソースが垂れていく。
「お兄ちゃんって良いなぁ…私一人っ子だから」
「そうね、私も血の繋がった兄が二人いるけれど、仲良しだったわ」
「そうなの!?藤子さんの家庭環境とかそういえばあんまり知らないです」
「ふふ、いつかね、それこそランチじゃ時間が足りないわ」
二人の会話を聞きながら、楓は口の中に入れたラザニアを咀嚼する。
————言わないようにするけど、お兄ちゃんって言えないのは、やっぱりなんかやだな。
昨日、仕事をしなきゃと立ち上がった怜に、楓がぽつりとそう言った。
怜は一瞬真顔になった後、ふっと笑った。
「そう?俺は…妹とか以前に、そもそも楓のことはあんまり見せたくないよ」
なんで?と聞くと、怜が穏やかな顔をして、楓の頭を抱き寄せて言った。
大きな手のひらが、楓の後頭部を優しい強さで引き寄せる。
「すぐに煽ることを言うし、無防備だし、甘えるし、かわいいから」
耳元で、怜の胸の奥から響くような低い声が鼓膜を揺らす。
「な、」
「とりあえず部屋着のまま外に出ないこと、男に安易に家を教えないこと」
「だ、だって、それはさ…」
皆川とのことをまた言われたのだと思って、意外と根に持つんだなと楓が眉を顰めて怜を見上げた。
「ふ、まぁそういうのは、これからゆっくり教えてあげるから」
怜が楽しそうに笑いながら、そう言って頭を撫でた。
ゆっくり教えるって、何を、どうやって。
変な想像をして声が出なかった楓を見て、怜は楽しそうに口角を上げた。——
「…なに思い出してる?ラザニアになんかニヤける要素あった?」
「ぁえっ」
「藤子さんどう思います?思い出しニヤニヤしちゃって。幸せラブラブですよ」
「うふふ、幸せラブラブねぇ」
急いで残りのラザニアを口に入れて、上がりそうになる口角を必死に抑えた。
なんとかランチの時間内に駆け足で続きの話をして、興奮して声が大きくなる桃香を、隣で藤子が何度か宥めた。
「あ、お疲れさまですー」
藤子と別れて、午後のレッスンの話をしながらスタジオに戻ると、店の外の植木に水をやっている皆川が声をかけた。
「おつですー、皆川さんお昼食べた?」
「これから休憩です、二人はどこかに食べに行ったの?」
「そう、おしゃランチしてきたー」
「いいですねー」
皆川に会釈をされながら、楓は足を止めた。
「桃香さん、ちょっと先行っててください」
「…りょ!」
桃香がニカっと笑って手を振った。
楓が曖昧に頷いて、皆川のそばに駆け寄ると、皆川はホースを手繰り寄せて、シャワーの水を止めた。
「…付き合いました?」
「えっ」
「だって改まって、それしかないでしょ」
「うう…はい」
楓がそう言うと、皆川はくすりと笑った。
「そっかー」と言いながら、店の裏に繋がっている水道に歩き出し、楓も後を追う。
「お兄さん、絶対楓さんのこと好きでしたもんね」
「ええっ」
「明らかに俺を冷めた目で見てたし。ダメですよ楓さんも、好意のある男に安易に家を教えたら」
「う…はい…」
怜だけではなく皆川にも言われるとは。
無防備だという怜の言葉はいつも聞き流していたが、それは無防備というよりも安全管理に近いのだろうか、と思った。
皆川はしゃがんで、ホースリールのレバーを回転させた。
キュルキュルという音がして、緑色のホースがクネクネと収まっていく。
「でももう俺はパン友達ですし。ね。安心してください」
「はい…」
「あ、ほんとですよ?彼氏さんにも言っておいてくださいね。パン屋の開拓を気軽にできる友達は本当に欲しいんだから」
皆川の大人さに、助けられている。
怜と、同い年だからだろうか。
二十八歳は皆こんなに、大人で、穏やかな目線で意図を汲み取ってくれるのだろうか。
「休憩中とか、桃香さんも一緒でもいいですし。またパン屋いきましょうね」
「はい…ありがとうございます!」
皆川はホースが綺麗に収納されたリールを水道の奥にガシャンと置いた。
濡れたタイルに太陽の光が当たって、キラキラと輝いていた。
「今度、彼氏さんの話と馴れ初め聞かせてください」
行きましょうか、とバックヤードとエレベーターがある方を指差され、楓も頷いて着いていく。
「…はい…」
馴れ初めなんて、どこから話したらいいのかすら分からない。
藤子が、以前、言った。
——「十年間ずっと存在していた恋に、やっと名前がつくのね」——
ショッピングモールのフードコート、受験勉強に付き合ってくれた金曜日の夜、町田で過ごした家族の時間。
恵比寿の家でリビングに敷いた布団、中目黒のスタバで、同居の打診をしたあの日。
きっと十年間、うっすらと蓄積された感情と愛の塊が、ずっとあった。
「…幸せそうじゃないですか。何その顔、いいなぁ」
「っ」
皆川が楓の顔を見て、ニヤリと言った。
思わず頬に手を当てると、少しだけ熱を持っていた。
皆川さんにちゃんと言ったよ、幸せそうですねって言われたよ。
そう言ったら、怜はどんな顔をするだろうかと考えて、上がりそうになる口角を必死に抑えた。



