「俺はさ…兄妹って単語が、一人歩きして欲しくないんだよね」
怜が、ぼそりと言った。
正面にある、真っ暗なテレビをお互いが見つめていた。
「世の中にはいろんな人がいてさ、楓が想像できないような考え方の人もいること、知ってるから」
「…うん」
「兄妹っていう響きだけで変な想像をする人は、絶対にいるんだよ」
平日の朝の空気が、ゆっくりと流れていく。
怜の低くて柔らかい声が、触れている身体を伝って鼓膜に直接届いてくるようだ。
「楓とのことを、異質なものとして捉えられたくない。楓にはそういう悪意に触れさせたくないっていう…なんていうか、そこは……兄心ってやつかな」
いつかの深夜、怜が出張帰りに話してくれた言葉が、脳裏に浮かんだ。
——『楓を妹として大切にしたい、守りたいって気持ちは今も全然あって、それはずっと前から、変わんないんだよね』——
好きだと言って、付き合っても、その思いは変わっていないんだ。
ゆっくりと染みていくような怜の声が、楓の気持ちを温かく溶かしていく。
変かな、今でも怜ちゃんが、お兄ちゃんであることが、こんなにも嬉しいなんて。
もう彼氏になったのに、変かな。
「俺は…楓が妹だったから好きになったし…今こうなってるのは嬉しいけど。でもやっぱり背景が複雑なことには変わりないし、別に俺は、自分の気持ちを他人にわかって欲しいとも思わないから」
「…うん」
「だから、妹としての気持ちは、…正直、楓だけが知ってればいいって思ってるくらいでさ」
怜の言葉が、ゆっくりと身体に入っていく。
楓が少しだけ体重をかけると、頭に乗ったままの手が静かに動いて、髪の毛を撫でた。
「だから…俺が楓を誰かに紹介する時は、妹とか言わずに、普通に…彼女って言う」
「っえ」
「…恥ずかしいわけないし、歳の差も関係ない。子どもっぽいなんか思ってない」
あの時の、感情に任せて吐き捨てた言葉がしっかりと届いていたことが伝わって、罪悪感で胸がきゅっと締まる。
「…好きだって、一生言うつもりはなかったけど……我慢できなくなった」
「……」
「恥ずかしいわけないじゃん……大事にしたいんだよ」
それは、兄としてなんだろうか。
楓が目線を怜に向けると、怜が少しだけ眉を寄せて言った。
「…これは、男としてね」
どうして怜ちゃんは、なんでも分かってしまうんだろう。
私の不安も疑問も、こんなにするすると解いてしまうんだろう。
お兄ちゃんだからなのかな。
それとも、
「…怜ちゃんは、なんで妹だった私を、好きになってくれたの」
するりと漏れた言葉が、静かなリビングにゆっくりと転がっていった。
怜はしばらく黙ったあと、楓の髪の毛をさらりと触れた。
少量の束を摘んでは、さらさらと落とす動きを繰り返していく。
「なんでかな…初めて会った時は、楓も小学六年生だったし、もちろんそんな目で見てなかったんだけど」
「えっ」
「えってなんだよ、俺その時高校三年生だよ?見てる方がヤバいし犯罪だから」
「そ、そっか」
怜が眉間に皺を寄せて言った。
思わず反応してしまったが、怜の言葉にそりゃそうだと思い引き下がる。
髪の毛はその間もずっと摘まれては落とされて、指通りを楽しんでいるようだ。
「…楓は、もう俺の人生の一部っていうか…切り離せないんだよな…」
ぼんやりと、自分自身に言っているようだった。
それは、私の方だと思っていた。
怜ちゃんにどうにか構ってもらいたくて、繋がりを失いたくなくて、断られないことを良いことに、何かしらの理由を付けて入り浸っていたのは、私なのに。
「妹だから好きになったけど…でも、妹じゃなくても、多分好きになってたよ」
ぼんやりと宙を見つめていた怜の視線が、楓を捉えた。
それにどきりと心臓が跳ねて、誤魔化したくて「な、なんで」と言った。
怜はふっと笑って、口角をきゅっと上げた。
あ、意地悪な顔をしてる。
ぴょんと跳ねた前髪の端が、宙にふわりと浮いているようだ。
「明るくていつも笑ってて素直で、料理も上手くて。誰とでも仲良くなるくせに、全然人を疑わないところとか、甘え加減が絶妙でかわいいところとか、自分の楽しいことに全力で努力して、頑張ってるところとか」
「ちょっ、」
「どう?機嫌、直った?」
怜がそう言って、楽しそうに笑った。
揶揄われていると分かって楓が視線を逸らすと、頭に乗ったままの手が、わしゃわしゃと髪の毛をかき混ぜるように撫でた。
「機嫌取るためにそんなこと言われましてもっ」
「別に嘘は言ってないけど」
怜がふっと鼻で笑った次の瞬間、するりと脇に入ってきた手に、身体が一気に引き上げられた。
「ひゃっ」
気づくと怜の足の間に入る形で後ろから抱きしめられていて、腰掛けていた身体が、真横に向いている。
足の裏にソファの皮がかさりと当たって、背中全体に感じる怜の体温が熱い。
「な、なに」
「恥ずかしがるのもかわいいけど、慣れてってもらわないとね」
「な、慣れるって」
「じゃないといつまで経ってもくっつけないでしょ」
怜の楽しそうな声が頭の上から降ってくる。
脇にするりと入れられていた腕は、肘が肩の上に乗っていて、目の前では怜の組まれた手が呼吸に合わせて微かに動いている。
恥ずかしさのあまり楓が黙っていると、怜が穏やかに言った。
「彼氏がいるってのは沢山言って良いけど、兄ってことは、信頼できる人だけにしてね?分かった?」
「…この体勢で約束させるのは、ずるいじゃん…」
「ふ、バレた?」
目の前にあった怜の手が、ゆっくりと動いて楓の頬を撫でた。
中指の第二関節の側面が、さらり、するすると動いていく。
「…分かったけど…彼氏がいるって言うのは、沢山言って良いんだ?」
「いいよ。特にあの、家に来てた店長さんには絶対に言って」
「ふはっ、皆川さん?あの人はもうパン友達になったよ」
「なにそれ?パン友達ってなに?昇格なの?降格なの?」
怜が後ろから覗き込むようにして言った。
少しだけ早口になったその口調が面白くて笑っていると、怜がはぁ、とため息をついた。
「俺をからかうのも結構ですけど…楓いま、自分がどんな体勢か分かってる?」
「えっ」
怜がすり、と背後から楓の頭に頬を擦り付けるようにした。
耳元にざらざらと髪の毛の音が響く。
「手を浮かしてんのも、譲歩してんだよ?」
肩の上に乗せられた肘には、そんな意図があったらしい。
耳元に少しだけ怜の息がかかる。
はむ、と唇で食べられるように息がかかった、あの玄関のことを思い出して身体の熱が一気に高まる。
「…そ、そんなに、くっつきたいの」
恥ずかしさから漏れた言葉だった。
その質問に真剣に答えて欲しいわけじゃなくて、意識しなければいけない箇所が多くて、思考が鈍った脳みそからぽろりと溢れただけだった。
怜が分かりやすく、はぁ、とため息をついた。
熱い息が髪の毛越しに耳に届いて、身体が少しだけ震えた。
ソファの皮が、ぎしりと音を立てた。
足の裏が、滑らかな革の表面を、小さく擦っていく。
「…好きな子だからね」
「は、はい…」
だめだよ、この距離でその言葉をゆっくりと囁くように言わないで。
「…当然、くっつきたいでしょ」
声が甘かった。
今は、絶対にお兄ちゃんじゃない。
お兄ちゃんの怜ちゃんは沢山見てきたけど、彼氏の怜ちゃんは初めてだから、その境目も顔も声も熱さも、まだ分からないよ。
「はい…」
お兄ちゃんなのに、お兄ちゃんじゃなくて、心臓が熱いよ。
九時を過ぎた文字盤の上で、細い金属の秒針が、カチカチと一定の周期で進む音だけが室内に落ちていく。
怜が「そろそろ本当に仕事しなきゃ」と言うまで、しばらくそうして固まっていた。
どちらかの静かな呼吸の音だけが、怜が離れた後も耳に残っていた。
全然、前からギュッてしてもらってもいいんだけど。
それを言う勇気はなくて、目の前で揺れる怜の指先の爪を眺めていた。



