キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
  

初めて張った意地と吐いた言葉を、どう撤回していいのか分からなかった。


今までの彼氏にそんな態度をとったことはなかったし、こんなに自分の気持ちを持て余すような感覚になるのも初めてだった。

次の日から、怜が話しかけようとしているのも、顔色を伺われているのも分かっていた。
ごめんと上手く謝れなくて、先に謝られたくなくて、楓は顔を合わせないようにしていた。

怜は仕事が忙しかったようで、朝早くから夜遅くまで、ドアの隙間から部屋の電気が漏れていた。
ドアに耳をつけると、パソコンのキーボードの音が聞こえてきた。

金曜日を休みにするためかもしれない、と頭によぎって、申し訳なくなって、余計に謝る勇気が出なかった。



そうして二日が経った、水曜日の朝だった。

「…なにしてるの…」
「……おはよ」

仕事が休みだったので、目覚ましをかけなかった。
自然に目が覚めてリビングに行くと、キッチンのコンロの前に立つ怜と目が合った。
半分しか開いていなかった目が、一気に開いた。

「な、なんか焦げてない?換気扇まわして」
「…なるほど」

気まずそうに言った怜が、コンロの上にある換気扇のボタンを押した。
ブオオ、と大きな音がして空気が入れ替わっていく。
楓がベランダの窓を網戸にして戻ってくると、怜がフライパンを持ったまま楓を見ていた。

「料理してたの?」
「…料理っていうか…まぁ…」

怜の手元の、小さいフライパンを覗くと、ウインナーが四本乗っていた。
そのうちの一本は三分の一だけ齧られていて、皮は弾けて黒く焦げていた。
白い排気口へと吸い込まれていく煙の向こうで、フライパンの底に残った油が、ジジジと小さく爆ぜている。

「…ウインナー、焼いてくれてたの?」
「……皮は破れるし焦げるくせに、中が冷たいのは、何で?」

怜がぼそりと言った。
だから一本だけ齧られていたのか、と思った楓が緩みそうになる口元を押さえていると、怜が続けた。

「あと、スクランブルエッグってどうやって作んの?楓がいつも作る、半熟でこんもりしてるやつ」
「え?」

怜がちらりと視線を送った先は、背後にある食器棚のスペースだった。
大きな平皿が二つ並べられていて、そこにはポロポロと固まった卵と、真四角に切られたレタスが乗っていた。

「炒り卵になったんだけど」
「ぶはっ」

堪えきれなくて思わず吹き出すと、怜が気まずそうに眉を寄せた。
その口元はへの字にきつく結ばれていて、それが余計に面白くて、楓の笑いはしばらく止まらなかった。

「…ひどくね?笑いすぎ」
「ごっ、ごめ、ぶはっ、だって、れいちゃ、可愛くてっ、ふ、ふふ」

自分が意地を張っていたことも悲しかったことも忘れて、棒立ちになっている怜のTシャツを思わず掴んだ。
距離が近くなって、怜のいつもの匂いがした。
機嫌を取られていることは分かっていたけれど、そんなことはもうどうでもいいような気がした。

レタスは包丁でわざわざ切らなくても、手で千切っていいんだよ。
ウインナーはいきなり強火で油を敷いて焼くと、火が中まで通る前に弾けちゃうよ。
卵は牛乳を混ぜたりしてもいいし、ずっとかき混ぜてると炒り卵になっちゃうよ。

楓がそう言うと、怜は「朝ごはんってそんなに高度なの」と言った。

怜ちゃんって、こんなに可愛かったっけ。
そう思うと、素直に言葉がこぼれた。

「ごめんね」
「何が。俺は自分がウインナーも焼けない人間なことに絶望してるよ」

怜の声は、少しだけそっけなかった。
楓が目線を合わせようと顔をずらしても、怜は相変わらずフライパンを見つめていた。

「傷つけちゃって」
「…炒り卵は俺が食べるから、ちょっとウインナーのリカバリーだけしてくんない?」
「怒ってないの?」
「…だから何が」

怜は、楓の問いには答えずに「もうレンジでいいか」と言って、ウインナーを皿に移した。
その姿に胸がきゅうと締め付けられて、もっと近づきたくなって、楓は電子レンジを操作する怜の背中に、ドンっと勢いよく抱きついた。

「うお」
「…ごめんね」

怜のパーカーからはいつもの柔軟剤の香りがした。
顔を押し付けるようにして言った言葉は、思ったよりも小さかった。
厚めのスウェット生地に声がこもって、電子レンジのウィーンという低い駆動音にかき消された。

「…俺は別に傷ついてないし…楓に怒るわけないから」

怜が静かにそう言って、お腹に回した手のひらを包み込んだ。
かさりとした怜の手が、指先を優しく撫でた。

「……でも」
「俺の言い方が悪かったなと思ったよ。反省した、ごめんね」

電子レンジがピーピーと無機質な音を立てて止まった。
怜の言葉が小さく耳に届いて、楓はお腹に回した腕に力を入れた。

「…怜ちゃんは、私に、甘すぎるよ…」

そう言うと、怜がふっと笑った気がした。
顔を寄せていた背中が少しだけ揺れて、怜が「食べよっか」と言った。
それでも何となく離れたくなくて背中に顔を擦り付けていると、怜がまた少しだけ笑った。


 
 


インスタントの味噌汁と炊きたてのお米。
真四角のレタスとポロポロの炒り卵が乗ったお皿に温めたウインナーを乗せて、久しぶりに二人で向き合って朝食を食べた。

二日ぶりに見る怜の顔は、心なしかいつもよりも愛おしく見えた。
味のついていない炒り卵を口に入れた後に「味付けしてなかった」とケチャップを取りに行った怜を見て、また同じ気持ちになった。

ゆっくりと朝食を取る怜に仕事はいいのかと聞くと、「今日はゆっくりでいいや」と優しく笑ってくれた。
今度は一緒に朝食作りをしようと言うと、怜は少しだけ気まずそうな顔をして頷いた。




「楓、ちょっと話そ?」

皿を片付けた後、怜が楓に向かって手招きした。
ソファに座る自分の隣をトントンと叩いて、楓はそれに従った。

「…俺があの日本当に言いたかったこと、聞いてくれる?」
「うん…」

怜は楓の頭に手を乗せて、自分の右肩に引き寄せた。
トン、と怜の肩に、優しくこめかみがぶつかって、くしゃりと擦れた音が耳に響いた。

ちらりとリビングの時計を見ると、もうすぐ九時になろうとしていた。
いつもなら仕事はいいのかと再度聞くところだが、この時間が終わってしまうのが嫌だと思って、口に出さなかった。

ずるい妹でごめん、と思いながら、お尻の位置をずらして怜に近づいた。
怜の体温が、すぐ隣から伝わってきた。

さっきよりも身体の側面がぴったりと合わさって、ベランダから抜けた風が間を通れずに二人を撫でていった。