キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
「そういや、案件の相談あんだけどいい?」
「何?」

食後、三浦がソファにだらりと座りながら言った。
楓は皿を洗っていて、怜が隣で布巾で拭いてくれている。

「百年近い和菓子メーカーの社長が、銀座に出店したいんだって。地元じゃかなり有名で商品もちゃんと美味いらしいんだけど、息子が反対してる」
「銀座ねぇ」

仕事の話が始まったんだなと察し、行っていいよと楓が手で合図するも、怜は首を振って皿を拭き続けている。

「社長は銀座に出したいんだけど、本当に欲しいのが銀座なのかブランド価値なのか売上なのか、自分でも整理できてない」
「銀座に出店したいは手段だからな。目的次第っていうか」
「そうそう。予算的にもうちじゃないし、誰かに一回整理して欲しいって相談されてて。お前やんない?」

三浦がソファの背もたれに頭をつけながら、ぐるりと怜に視線を送った。
難しい言葉が出てこないので話の内容は楓にも理解はできるが、そのテンポと展開の速さに驚く。

「現状どのくらい?銀座に出したら売上伸びると思って言ってんの?」
「年商三十億ちょいで地元と百貨店催事がメイン。社長は思ってるけど息子は固定費気にしてる」
「銀座に出した結果、何が変われば成功なのかだろ。後継者いるなら尚更」
「それなー」

食器を洗い終わった楓がコーヒーメーカーのスイッチを入れていると、怜が棚からカップを三つ出してくれる。
布巾をバーにかけた怜が、「うーん」と悩みながらソファに向かった。


か、かっこいい。
こんな怜ちゃん、見たことないかも。

楓はその後も飛び交う会話を耳にしながら、コーヒーがポタポタと落ちていく様子をぼうっと眺める。

怜に仕事のことを聞いても適当にはぐらかされることが多かったり、わざと難しい単語を使われたりして揶揄われていた。
仕事中のパソコンを覗いたこともあったが、何がなんだか分からなかった。
けれどテンポよく展開されていく二人の会話を聞いていると、怜も三浦も、仕事ができるんだなと改めて思わされる。

「まぁ、じゃあとりあえず一回会うわ」
「おけ」

いつの間にか、ピーという電子音と共に落ち切ったコーヒーを何となく恥ずかしい気持ちのまま見続けていると、怜が「代わるよ」と言って隣に来た。

「あ、うん…」
「…顔赤くない?どうした?」

なのに、なんで、なんでそんなに私のことよく見てるの。

「……かっこいい」
「え?」
「…仕事できるって感じで、かっこいい…」

楓がそう言うと、目の前でコーヒーをマグカップに注ぐ怜の腕が、少しだけ揺れた。
傾けられたガラスサーバーの口から、濃い茶色の液体が白いマグの底へと細く落ちていく。

「…今そういうこと言うなよ…」

小声でぼそりと呟かれた方をちらりと見ると、眉を顰めた怜が苦い顔をしていた。
心なしかその顔は照れているようも見えて、三浦に聞こえていないことを祈る。

「ごめんけど俺、耳良いからめっちゃ聞こえてる」
「えっ」
「今すぐ記憶から消せ」

気まずそうな顔をした怜がふいっと視線を外して、ソファに座ったままの三浦の元にコーヒーを運んでくれる。
楓もその後に続いて、皿に乗せたマフィンを持って行った。

「蓮見って、マジで楓ちゃんが特別なんだな」
「うるさい」

いただきますと手を合わせ、三浦がコーヒーをこくりと飲んだ。
少しだけ焦げたような珈琲豆の深い香りが、さっきまで室内に残っていたマフィンのバターの甘い匂いを塗り替えるようにして、ゆっくりと天井へ向けて抜けていった。


「昔から?こんな風に甘々だったの?」






————「そうですねぇ…」

隣に座る楓が、三浦の問いに考え込むような顔を見せた。
リビングの窓から差し込む昼下がりの光が、ソファに深く腰掛けた三浦の顔を斜めに照らしている。

楓はきっと知らない。
俺が今まで、三浦や他の人間に見せてきた顔がどんなものだったかを。


「怜ちゃんは最初に会った時からずっと優しかったですね」
「へぇ、小学生の時だっけ?」
「はい、六年生の時に初めて会って、最初は月に一回とかだったかなぁ」

俺も最初から、楓にこんな態度だったわけではない。
その時は高校三年生だったし、いきなり小学六年生の女の子と仲良くできるわけがない。
それなりに、「妹」として適切な距離を保とうと、線を引いていたつもりだった。


それでも、持ち前の無邪気さと明るさで、俺を早々に信頼して近づいてくる楓に、俺が引いていたはずの線が、じわじわと内側に押し込まれていった。


「だんだん月に二回、三回って増えていって、いつの間にか毎週末会うようになって」
「へぇ、でその時に宿題とか見てくれてたんだっけ?」
「そうですね、毎週末会うような頃は、もう親とは別行動で、ショッピングモールのフードコートでダラダラしてました」


楓が無意識に、俺の防衛線を削ってきた十年の結果が、きっと今の距離感だ。
封印して、自制してきたはずなのに、その無邪気さに釣られて、少しずつ内側に引き込まれてきた。


「受験勉強も見てもらって?」
「そうですね…怜ちゃんは頭も良かったし、その頃は多いと週に二、三回会ってたかなぁ」
「高校からは一緒に住んだんだよね?蓮見は大学四年生か」
「はい、社会人二年目まで。忙しいのに、新しい学校に馴染めない私に沢山付き合ってくれて、一緒に過ごす時間もとってくれて」


だって、楓の気持ちを分かってやれるのは、俺だけだと思ってたんだ。

親の都合に振り回されているのに、母親が幸せならいい、父親ができるのが嬉しい、俺と一緒に住めるのが嬉しい。
そう曇りなく言う姿を見てきて、この子の心が歪まないようにしなければいけないと、思っていたんだ。


「妹」としてより、「女の子」として強烈に意識していることに気づいたのは、いつだろう。


基準値がずれていって、いつの間にか線を超えて、感情が抑えきれなくなった。
無意識のうちに、その顔を見ているだけなのに、甘やかして、世話を焼いて、独占したくなる。
義務感から始まったはずなのに。
いつしか恋慕という巨大なものにすり替わって、兄としての役割をはみ出して溢れていた。それを「兄の責任」という箱に、無理やりねじ込んできた。


「で、また離婚してからは?蓮見も一人暮らし始めたし、楓ちゃんも千葉に戻ったんでしょ?」
「そうですけど、大学が二年生までは横浜キャンパスだったので…授業が一限の時は、恵比寿にあった怜ちゃんの家から学校に行ってました」
「…え?マジ?泊まってたの?」
「はい!お布団借りて、リビングに敷いて。だからバイトも恵比寿でしてました」

楓が思い出すように、何気なく言った言葉を聞いて、三浦がちらりと俺を見た。
その顔は若干引いていてきっと、すげぇな、とでも思っているんだろう。


当然、手を出したりはしなかったし、仕事も激務だったから毎日疲れていて、楓が当たり前のように俺の家に泊まっていても、次第に何も思わなくなった。
深夜に帰ってきたらリビングで寝ている楓の顔を見てホッとした。
音を立てないように生活するのもストレスではなかったし、きっとむしろ、それがあったから耐えられていた。


「それは…その時の彼氏には何も言われなかったの?」
「うーん、言われたかも…あ、ていうか…怜ちゃんにも彼氏の話…全部…してた……」
「うへぇ、地獄じゃん」
「ご、ごめん…あの……怜ちゃん…」


楓が今気づいたとばかりに焦った顔をして、俺の服の裾をぎゅうと握った。
その奥では三浦が楽しそうにニヤニヤしていて腹が立つ。

「いいよ、別に」

そんなの、別に、なんてことなかった。
俺にとって、楓への気持ちは、届くわけがないという前提だったから。


「あ、でも大学三年からはキャンパス変わったの?」
「はい、白金に。でもその頃は就活相談で、怜ちゃんに話を聞いてもらいたくて、結局入り浸っていたような…」
「か…彼氏に相談しなかったの?」
「えっと…怜ちゃんの方が…あの…参考になって…面接対策とかしてくれてたし…」
「うへぇ」


いつか手を引かれて、自分の手からすり抜けていくその日まで、兄として、隣にいる時間だけを命綱のようにしていた。
このまま、いつか手が離れていくものだと、

それまでの役目だと思って、いたのに。


「じゃあずっと何だかんだ蓮見のことを離さなかったのは楓ちゃんなんだ」
「え?」
「なんでそれが、今更好きってなったの?」
「えっ、えっと、なんでだろう…」


俺が、動いたからだよ。


三浦に、楓が意識していると知らされて、その変化ひとつで、可能性が0.1%生まれた気がしたんだ。
柄にもなく、その一言が、これまでの十年をすべてなぎ倒して動くのに十分すぎるほどの光だと、思ったんだ。

でも確信が持てなくて、信じられなくて、保険をかけ続けて、余裕を装って。
楓の反応一つ一つを観察して、どこまでなら許されるか小出しにして、確認せずにはいられなかった。


「怜ちゃんのことは、…十年…昔から、ずっと好きだったから」
「え?」
「だから…男のひとに、一回見えちゃったら…きっともう、だめだったんです」
「そうなんだ?」


なんで楓は、そんなにも素直に自分の気持ちを言葉にできるのかな。
ニヤリと奥で笑う三浦に見せたくないと思うのに、口元がすぐに緩んでいく。


「怜ちゃんが、好きでいてくれたから…私もすきになれました」


届くわけがない、と思っていた。
救われるわけがない、と信じていた。

だから俺は、楓が好きだと言ってくれた日を、
その小さい身体を抱きしめた日を、一生忘れない。