「もー、まだ怒ってるの?」
「怒ってないけど」
マフィンの焼けるいい香りがオーブンから漂うキッチンで、楓が茄子を切りながら背後にいる怜に声をかける。
「じゃあなんでくっついてるの、今包丁使ってるし危ないよっ」
「俺は動かないから作ってていいよ」
先ほどから背中にぴたりと密着されて、怜の手が緩やかにお腹の前に回っている。
頭を背中にぐりぐりと擦り付けられていて、邪魔ではないのだが正直動きづらい。
「マフィンは手伝ってくれたのに、料理はやってくれないの?」
「楓っていい匂いするよね」
切り終わった茄子をザルに入れていると、怜がそう言った。
「匂い嗅いでたの!?やめてよ!」
慌てて振り返ると、化粧なども済ませた楓とは対照的に、部屋着で寝癖もついたままの怜と目が合った。
「なんで」
「ヘンタイじゃん!」
「変態?俺が?なんで?」
なんだその、信じられないみたいな真顔は。
勝手に匂いを嗅いでいるなんてなんだか恥ずかしいし嫌じゃん。
そう思いながらも、きっとまた正論で返されるので、楓はピーマンを手に取った。
揚げ浸しにしようと思っているので、早く準備を済ませてしまいたいのに、怜がくっついてくるせいで気が散ってしまう。
「…ちょっと今から油使うから、ほんとに危ないよ跳ねるし」
「昼ごはん、何?」
「…親子丼、茄子とピーマンの揚げ浸し、じゃがいもと大根とめかぶのお味噌汁」
「ご馳走じゃん」
「うん、三浦さん十二時に来るって言ってたから、ね、ちょっと急がなきゃだし」
楓がそう言うと、ふっと笑った怜が「はーい」と返事をしてソファの方に歩いて行った。怜が離れると、温かかった背中に、リビングの外気がすっと滑り込んでくる。
付き合うとこんなにくっついたり甘えてきたりするんだ、なんだか大型犬みたいだな。
兄妹だった頃からは想像できない姿だ。
自分より背の高いその後ろ姿がなんだか可愛く見えて、思わず笑みがこぼれた。
「兄妹脱却、ラブラブ同棲開始、おめでとー!!」
三浦の通る声と共に、玄関からパン!とクラッカーが小さく破裂した音と、「…やっぱ帰って欲しいかも」という怜の声が聞こえた。
キッチンで親子丼を器によそっていた楓は、「せっかくわざわざ百均で買ってきてやったのに」「頼んでない」という、三浦と怜の近づいてくる話し声を聞いて、リビングの入り口に駆け寄った。
「三浦さん!こんにちは」
「こんにちは楓ちゃん、おめでとうー!はいこれ、チーズケーキ」
「えっ、ここ有名なとこじゃないですか!?並ばないと買えないっていう…!」
にこりと手渡された箱は、テイクアウトでも並ぶか予約しないと買えない有名店のものだった。
ひんやりと冷たい箱を受け取りながら楓がそう言うと、三浦はコートを脱ぎながら「そうなの?」と言った。
「そうですよ!しかも今の時期限定の!ほうじ茶のフレーバーじゃないですかー!!」
「ぶはっ、喜んでくれて何よりだわ。そこのオーナーと飲み友達なんだよねー」
「また変な人脈広げてんのか…」
「なんだよ、人脈はあればある方がいいだろ」
楓がウキウキしながら箱を見ていると、怜が「冷蔵庫でいいの?」と言いながらそれを手に取った。
「うん」と返事をすると、「はーい」と言いながら怜がそれをキッチンに仕舞いに行く。
テーブルの上の準備を続けようと楓が器を手に取っていると、それを見ていた三浦が言った。
「この間はごめんね?無事にまとまったみたいで良かったね」
「全然!私こそ急にすみませんでした。三浦さんのおかげです」
「えっ!俺のおかげだって!蓮見!!」
「なんで俺に言うんだよ」
怜が冷蔵庫の扉を閉めながら「ていうか楓、わざわざ報告したの?」と言った。
「だ、だってお世話になったし…最初に言うのは三浦さんかなって…この間のことも謝りたかったし…」
「え!俺が最初の報告相手!?感激、これからも最前列で見守っていくわ」
「いらん」
三浦が嬉しそうにそう言って、ソファにどかっと座った。
パソコンが入っているであろうリュックを持っていて、きっとこの後ついでに怜と仕事の話もするのだろう。
「親子丼とか茄子とか好きですか?お昼もう出来んですけど…お腹空いてますか?」
「空いてる空いてる!好き好き!楓ちゃんがご飯作ってくれるって言うから、朝も抜いてきた!普段から食べてねぇけど」
「朝ごはんは食べたほうが健康にいいですよー」
楓が箸などを準備していると、三浦がダイニングテーブルについて、怜も座った。
いつもよりも素直だな、と思っていると三浦が怜に言った。
「楓ちゃんと一緒に住むようになって、朝ちゃんと起きて朝飯も食って?こんな健康的な食事で?お前ほんと変わったなぁ、ていうかガチで羨ましい」
「うるさいな」
「怜ちゃんと焼いたマフィンもデザートにありますよ、後でお茶も入れますね」
「楓」
楓が席につくと、三浦が箸を手にしたまま動きを止めて、怜を見つめていた。
あ、またマズイことを言ったのかもしれない。
「蓮見が?マフィン??」
「マジでうるさい。食べよ、いただきます」
「え?どんな流れでそうなったか聞いていい?」
「怜ちゃんが朝からなんか一緒にやりたいって」
「楓」
「…くっついてきて」
「楓、わざとだろそれは」
怜が楓を小突いて、見破られた楓は笑みをこぼす。
いただきます、と楓が手を合わせて前を見ると、固まったままの三浦が怜をじっと見ていた。
「本気で羨ましい…」
「心の声が漏れてる。つーか冷めるから早く食え」
「いただきます…」
普段は怜が余裕そうに楓を揶揄っている分、三浦の前で狼狽える怜を見るのは少し楽しい。
楓が親子丼を口に運びながら笑っていると、怜が再び楓を小突いた。やはりさっきの暴露は嫌だったらしい。
「そんで今日の飯もガチで美味い…俺もここに住もうかな…」
「嫌すぎ」
「ありがとうございます、毎日でも食べにきてください」
「楓やめて、そういうこと言うの」
怜がそう言って、味噌汁を啜った。
食卓には出汁のいい香りと、オーブンの余熱が残すマフィンの香ばしい匂いが漂っている。
半熟の卵液に閉じ込められた細切れの海苔が、しんなりと黒く縮んでいて、味噌汁からはまだ湯気がふわりと漂っていた。
「付き合ってどう?蓮見は。兄じゃなくなった?」
親子丼を大きな口でかき込みながら、三浦が楓に言った。
隣に座る怜をちらりと見ると、余計なこと言うなよ、とでも言いたげなじとりとした目線を向けられた。
「…お兄ちゃんのままなところもあるんですけど…でも…」
言葉を探して、少し止まった。
好きだと思われていることが、その目線から、手つきから、態度から、全てが伝わってくる。
今までは見過ごしていた優しさや思いを、自分が意識しているからか鮮明に、強く感じて、それがとても嬉しい。
世界で一番大切で、壊したくなかった場所。
兄妹という枠組みを手放さなくても、今までの関係に甘さが追加されて、もう知っていると思っていた怜の姿が、少しずつ違う形を見せていく。
この間まで形が変わることを怖がっていたはずなのに、むしろそれが心地いい。
「…私は…すごい、毎日…うれしくて、たのしいです……」
頬が少しだけ熱いのは、味噌汁の温度のせいだろうか。
リビングを吹き抜けていく風に、まだ残っている小麦粉とバターの香りが混ざっている。
目の前に置いてある親子丼からは、半透明のだし汁が、つやりと光る白米の粒の隙間を伝って、陶器の底へと静かに滴り落ちていった。
「可愛い…」
「黙れ」
「ガチでマジで羨ましい」
「うるさい」
自分でも恥ずかしいことを言った自覚があり、目の前の三浦の顔を見られない。
誤魔化すようにレンゲに米を山盛り乗せて、口に運んだ。
隣の怜の顔は、今は見たくない。
早くキッチンに行きたい。
「どうやったらこんな子に育つの?」
「俺の教育がいいから」
「は?エロい」
「ほんと黙って」
でも、キッチンに行ったら今日の甘い態度の怜を思い出してしまいそうで、それもそれで耐えられないかも。
二人のやりとりに参加しないようにしながら、楓は黙々とレンゲを口に運んだ。
窓外のベランダを吹き抜けていく乾いた風が、カーテンの裾を小さく揺らした。
隣り合って座る怜との距離がいつもより近く感じるのは、きっと気のせいだ。



