甘さが、飽和している。
「楓」
「な、なに」
「まだ緊張してんの?名前呼んだだけなんだけど」
だってそれは、怜ちゃんがすごく距離が近いからじゃん。
そう頭に浮かぶも、言い返すと正論が返ってきそうなので、楓は口を噤んだ。
昔の怜は、どちらかというと距離をしっかり取っていて、楓から近づいていた。
それを少し面倒くさそうに、仕方ないみたいな顔をしながら受け入れていたし、「お前」とか「おい」とか、そんな言葉も混ざっていた気がする。
「ど、どうしたの」
「いや?今日は何つくんの」
楓の肩にちょん、と顎を乗せながら話す怜の声は優しくて、まるで甘えられているようだ。
あれ以降、抱きしめられたりキスされたりはしなくて、きっと自分の気持ちを待ってくれているのだろうとは思う。
「…かぼちゃ餡買ってきたから、それを巻いた食パン…」
「ふうん?うまそ、俺も一緒にやりたい」
「エッ」
それでも、いつもより距離が近いのは確実で、じわじわと縮められているようなこの距離に、この甘さに、最近は怜のそばにいると心臓が忙しい。
「どうやんの」
「…まず、私の肩からその顎を外します」
「ふっ、はーい」
楓がそう言うと、怜が楽しそうに軽く笑って離れ、羽織っていたパーカーの腕を捲った。
そのままシンクで手を洗い出す怜の横顔をちらりと見ながら、楓は材料を棚から取り出す。
「なに入れるの?」
「強力粉を二三〇グラムと、きび砂糖を三十グラムと…」
「普通の砂糖とどう違うの」
「コクが出るんだよ」
秤の上に置いたパンケースに、怜が楓の指示通りに材料を入れていく。
キッチンの窓から差し込む朝の光が、パンケースのアルミニウムの側面を眩しく照らしている。
スマホに落とし込んであるスタジオのレシピを覗きながら楓が指示を出し、全部材料を入れ終えたところで、ホームベーカリーにパンケースをセットする。
「あんこ入れてなくない?」
「成形の時に巻くから、まずはパン生地だけを作るの」
「ふうん?」
なんだかいつもは怜に教えてもらっていることばかりなので、新鮮だ。
そう思いながら楓がホームベーカリーのボタンを押すと、怜がしばらく黙った後、ぼそりと言った。
「くっついてもいい?」
「…いいけど…」
楓が小声で返事をすると、怜がふわりと楓を後ろから抱きしめた。
緩くお腹の前に手を回され、背中には怜の身体がぴったりと密着する。
「…てか、もう終わり?何分後?」
「一次発酵までやってくれるから、一時間半くらい?」
「……俺の思ってたパン作りと違う」
「ふふ、この後成形したら二次発酵もあるから、焼けるのはお昼かな」
怜が楓の肩に顔を埋めるようにして擦り付けた。
ふわりと頬に当たる髪の毛がくすぐったくて、楓は思わず笑みをこぼす。
手捏ねにしたら良かっただろうか。
でもこれは水分量が多いレシピだから、ホームベーカリーにお任せしちゃった方が楽なんだよな。
そう思った楓が、肩に乗せられた怜の頭を見て言った。
「…なんかまだやりたいなら、マフィンでも焼く?」
「……うん」
なんだか今日の怜は子どもみたいだ。
基本的なバターや粉は冷蔵庫に常備してあるので、混ぜるだけのマフィンならすぐに焼ける。
なんのレシピにしようかな、フルーツや他の材料は他に何があったかな、などと思いながら棚をゴソゴソと探している間も、怜は楓の背中にくっついていた。
「コーヒーのマフィンとかどう?チョコチップも入れて」
「うまそう」
怜がそう言って、楓の頭を撫でた。
手に持ったインスタントコーヒーの粉とチョコチップを見てほしいのに、怜の視線は楓の顔に注がれていて、それがなんだか恥ずかしい。
モーターの規則正しい駆動音が、キッチンの作業台に響いている。
「お昼前には焼けるし、三浦さんにも食べてもらおう」
「うん、え?」
「お昼はパスタにしようかなぁ。お米の方が喜ぶかな?」
「待って待って待って」
「あ、化粧しなきゃ。マフィンをオーブンに入れたらちょっと休憩しよっか」
「待って待ってほんとに」
強力粉をしまって薄力粉を取り出し、卵も常温に戻しておいて、と慌ただしく動く楓の隣で、怜が焦った声を出した。
「……あれ、昨日私、言ってなかったっけ」
「聞いてない。断って」
「ドタキャンはダメだよ」
「家主に無断で人を呼ぶ方がダメでしょ」
さっきまで優しい目を向けていた怜の顔が、冷ややかになっていく。
おかしいな?昨日言ったと思ってたけど、言ってなかったかな?そう思って記憶を辿るも、そういえば言ってなかったかもしれない。
楓が「ごめんね、言うの忘れてたかも」と言うと、怜ははぁ、と短いため息をついた。
「楓」
「はい」
「俺の彼女」
「は、はい」
怜が短く発する言葉の意図が分からず、勉強を教えてもらっている時のように返事を繰り返す。
なんとなく姿勢が伸びて、気をつけのように手のひらが身体の真横に降りる。
「一昨日、付き合った」
「はい」
「付き合って初めての週末、たまたま楓が休み」
「…はい」
怜は首を傾けて、楓を見下ろした。
組まれた腕とその表情から、怒っているのだと分かる。
楓が思わず目を逸らすと、怜の手によって正面を向かせられた。
「俺の言いたいこと、分かるね?」
「…ふぁい」
頬をきゅう、と握られて上手く喋れない楓の頬を持ったまま、怜は楓の耳に息をふっと吹きかけた。
「ぎゃっ」
冷たい吐息が耳たぶの上を撫でるように過ぎていった。
「ていうかなんで連絡とってんだよ、必要ないでしょ」と怜が言いながら、頬を握られていた手を離した。楓は耳元に手を当てながら答える。
「だって…お礼がしたくて」
怜が怪訝な顔をして「お礼?」と聞き返した。
あの時、三浦に言い当ててもらったから、自分の気持ちを自覚できた。
ずっと何にモヤモヤしているのか分からなくて、だから進めなかった。
どんな形でも怜と一緒にいたかったことを見抜かれて、それが自分の選択の核だったことに、気付かされたから。
「三浦さんに言ってもらえたから、前に進めたんだもん…」
「……俺はまだ許してないけど、楓を泣かせたこと」
「ちが、あれは勝手に私が泣いただけで、三浦さんは関係ないから!」
怜はため息をついて、ふっと笑った。
あ、仕方ないって顔。お兄ちゃんの、顔だ。
「…ま、楓がいいなら俺はいいけど」
そう言って、なんでも受け止めてくれて優先してくれる怜が、たまらなく好きだ。
触れられるのにも、距離が近いのにもドキドキするけれど、私を今までのように優先してくれる時が、一番胸がぎゅうっとなる。
「…怜ちゃん」
「ん?」
「…すき」
だからきっと、関係が変わっても、好きになった。
抱きつく勇気はなくて、怜のTシャツの裾を握りながら言った。
白い生地がくしゃりとシワがよって、プリントが歪んだ。
「……やっぱ、三浦は断って」
「え?」
「…見せたくないから、今日の楓」
かわいくて。
そう付け足された言葉に、頬の温度が一気に上がった。
怜がゆっくりと一歩近づいて、腕がふわりと背中に回った。
心臓がきゅう、と音を立てて、背中の手のひらも同じように力が込められていく。
「…だめだよ…」
怜の腕の中で、Tシャツに顔をつけてそう言った。
上からため息が降ってきて、それが少しだけ面白かった。
だって、この距離が続いたら、どうなっちゃうか分かんないもん。
その言葉は、喉の奥に飲み込んだ。
ホームベーカリーがピー、と機械的な音を立てて止まって、土曜日の朝の空気だけが、リビングを満たしていた。



