「あ、あの、ごはん、作んなきゃ」
「え?」
怜の手に引っ張られるようにしてリビングに連れて行かれ、ふっと手が離れた。
机の上にカタ、と静かに置かれた百貨店の紙袋は、少しだけくしゃりと歪んでいた。
「楓、コーヒーもまだ残ってるのにお腹空いてるの?」
「…空いては、ない」
「俺もそんなに。いいよご飯は。こっちおいで」
こっち、って、どこ。
ソファに座った怜が手招きをするが、楓はキッチンの入り口から動けないままだ。
先ほどの唇の感触が、耳たぶに押し当てられた熱が、背中に回った手が、鮮明に、全てが身体に残っている。
「て、」
「ん?」
「てあらい、うがい、してきます…」
脳みそを通らずに口から出てきた言葉は、保育園のスローガンのようだった。
楓は怜の顔を見ずにリビングを出て行って洗面所に逃げ込んだ。
鏡に映った自分の顔を見ると思わず声が漏れた。
「真っ赤じゃん…っ」
思わず手のひらを頬に当てると、じっとりと湿っていた。
そんなことにも気づかないほど、目の前の出来事に、夢中になっていた。
「はずかし…」
彼氏がいたことも、キスも、その先もしたことはある。
けれどあんなに情熱的で、いっぱいいっぱいで、熱くて、どうしたらいいか分からなくなったことなんて、今までになかった。
白い洗面台のボウルに向かって流した水が、排水口のステンレスへと吸い込まれていく。
口を濯いで洗った手で頬を触ると、ファンデーションに水が弾いて、ぽつんと水滴が残って一瞬で流れていった。
「手洗いうがいは、できましたか?」
リビングに戻ると、先ほどのソファに座ったままの怜が、口元を緩めながら言った。
「俺もキッチンのシンクでしました」とニヤリとしながら報告をされ、楓は「はい…」と思わず敬語で返す。
小さい歩幅でソファまで進んで、怜とできるだけ離れた隅に、静かに腰を下ろした。
「…遠くない?」
「だって、」
まだ背中にきつく回った腕の感触が残っているみたいなのに。
さっきみたいなキス、今されたらもう耐えられない。
一回、触れるだけだと思って出した許可は、思ってもない形で塗り替えられた。
少しだけぶつかるように触れた唇が、斜めになって、離れるかと思ったら、はむ、と啄むように動いた。
一回、と出した制限を守られるように、一度も離れることなく繰り返された。
まるで、優雅に食べられているようだった。
合間に漏れていく吐息が、燃えるように熱くて、でもそれは自分のものか分からなかった。
「だって、なに?」
「…恥ずかしくて、しんじゃうよ……」
そう言って、膝を抱えた。
膝の間に顔を埋めると、しばらく怜は何も言わなかった。
それに少しだけ不安になってちらりと顔を上げて視線を送ると、口元を押さえた怜が口角を上げていた。
「…楽しんでるでしょ」
きっと、怜ちゃんは余裕なんだ。
あんなキスをして、耳たぶを食べるようにしたくせに、私がどんな気持ちで、どうなってるのかなんて知らないくせに。
そう思った楓が目を細めて言うと、怜は口元を押さえたまま、少し目線を外して言った。
「え?俺、楽しんでるように見える?」
「見えるよ、ニヤニヤしてさ。違うの?」
「別に、そういうんじゃないけど…まぁいいよ」
怜がそう言って、テレビの電源を入れた。
人ふたり分ほど空いたソファで、怜は背中を預けながら画面を見つめた。
「なに?違うの?教えて、なに言いかけたの」
「なんでもないって」
「…教えてくれないと、クッキー缶あげない」
「俺が買ったのに?」
そうだった、と思っていると、怜が少しだけ眉を下げて笑って、ダイニングテーブルの上に置いてあったクッキー缶を手に取った。
「どっち先に食べるの?」
「三種類のサブレの方!」
「はいはい」
怜がテープを剥がしながらソファに戻り、クッキー缶を開けた。
少しだけ近づいて中身を覗くと、缶のフチに沿って、綺麗に並べられていたはずのサブレの端には亀裂が走っていて、小さく砕けている。
「割れてる…」
「……ごめんって」
そういえば、あの時玄関で、怜が乱暴に荷物を置いたんだった、と思い出す。
ドキドキしていてそれどころじゃなくて、繋がれた手が熱かったことしか考えられなかったけれど、怜ももしかしてそうだったのだろうか。
「…怜ちゃん、さっき、なに言いかけたの」
楓の言葉に、怜は少しだけ視線を逸らすと、クッキー缶をローテーブルに置いた。
カツン、という音が、テレビのバラエティ番組に紛れていった。
「……普通に、にやけてるだけ。嬉しくて」
ため息をつくように、こぼれていくように、怜が静かに言った。
前髪をくしゃりと触り、わざと目にかかるように下ろした。
やっぱり、怜ちゃんも私と同じようにドキドキしてるのかな。
余裕なんかじゃないのかな。
今になって、唇が触れる前の怜の表情を思い出す。
真っ直ぐ、その伏せられた瞳は、熱を孕んで少しだけ潤んでいた。
「………」
「…なんだよ」
楓が何も言えないでいると、怜がぼそりと言った。
恥ずかしいのも、私だけじゃないのかもしれない。
そう思うと怜が可愛くて、なんだかその頭を撫でたいような気持ちになって、それでもあの時の熱が鮮明で、躊躇した。
「…クッキー、食べていいよ」
「……だから、俺が買ったんだって…」
表情は見せないまま、少しだけ笑って怜が言った。
楓が缶から一つ取って、怜の口元に持っていくと、口が開いた。
はむ、と怜の唇がクッキーを挟んで、楓が指を離すと、そのまま口に吸い込まれていった。
その唇を見るだけで、先ほどのキスを思い出してしまう私は、どうかしてしまったんだろうか。
「…美味しい?」
「……美味しい」
楓は少しだけ油分がついた指をぺろりと舐めると、怜の隣に移動した。
隣からはサクサク、とサブレが噛み砕かれていく音が聞こえる。
お互い前を向いて、テレビを見ているのに、きっと全ての意識は、触れそうな肩に集中している。
「楓」
「…なに」
「くっついていい?」
「…だ、だめ」
咄嗟に溢れた楓の返事を聞いて、怜が、ふはっと笑った。
からりとした声だった。
怜が身体を起こして、クッキー缶からサブレを一枚取った。
そのまま楓の口にゆっくりと運んで、楓は口を開けた。
さく、と齧ると、サブレを手にしたままの怜の指先が少し離れていって、宙で止まった。
「美味しい?」
「…美味しい」
バラエティ番組の笑い声が低く流れるリビングで、サブレが噛み砕かれる、さくさくという乾いた音だけが二人の間に落ちる。
舌の上でサブレが溶けるように消えていって、楓が再び口を開けると、怜が残りを運んだ。
唇に少しだけ親指が触れたことに、気づいて知らないふりをした。
「楓」
口を動かすと、少しの咀嚼でほどけるようになくなっていく。
名前を呼ばれ、楓は口元を手で押さえながら、怜の顔を見た。
「…好きだよ」
怜が顔だけをこちらに向けて、優しくそう言った。
くしゃりと乱れたままの前髪が、ワックスによって柔らかく跳ねていた。
それがとても、可愛いと思った。
「……わたしも、だよ」
そう言った後、慈しむような目線に耐えられなくて、視線を逸らした。
しばらく見つめられていたことは分かっていて、前を向いたまま、触れそうな肩を意識していた。
怜はそのあとは、何も言わなかった。
口の中の、少しだけ苦味のあるキャラメル味が、舌の上にいつまでも残っていた。



