「かえで」
怜が、ゆっくりと名前を呼んだ。
そのスニーカーの裏が、アスファルトと擦れて鈍い音を立てた。
「っ」
怜の手のひらが差し出されるように動いて、楓は思わず身をすくめた。
それを見た怜が、触れられる前にぴたりと止まったその手を戻した。
少し間を置いて、怜が言った。
「…どういう意味か、聞いていい?」
「……」
「兄として、だけ、じゃ…ないよね?」
まっすぐに自分に視線を向けられているのが分かって、思わず後退りした。
恥ずかしくて、怜の手元にある紙袋を見つめていた。
頬も、耳も、心臓も、足の先まで、全て熱くて、どうしていいか分からない。
「そうだよ…」
「男として、ってことだよね?」
「…そうだよ…っ」
言い終わる途中で、怜の腕が背中に回った。
カップから飛んだ水滴が、宙を舞うのが視界の端に映って、気づいたら少しだけ固いスウェット生地が頬に押し付けられていた。
「れい、ちゃ」
「本当?」
「え、」
「ほんとに、俺のこと好きなの?」
怜のくぐもったような声が、ニットに吸い込まれていった。
「うん…」
こくりと頷くと、背中に回っていた怜の腕が、ぎゅうときつく締まった。
腰と背中を包む大きな手のひらが、ニットをくしゃりと握り潰すように力を込めていた。
空いている手のひらを怜の背中に回して、スウェット生地をすり、と撫でた。
遠くから女性数人の話し声が聞こえてきて、そういえば外だった、と楓が思わず勢いよく顔を離した。
背中に回っていた力も一気に緩んで、怜の腕がほどけていった。
「帰ろ」
「え」
「ちょっと早歩きしていい?」
「え、あ、うん」
楓が返事をするや否や、怜が楓の手からカップを奪い取るように持った。
もう片方の手で楓の手を握りしめると、くるりと前を向いて、家の方向に歩き出す。
引っ張られるような形で楓の足も動いて、いつもよりも大きい歩幅で進んでいく怜に、楓は早足でついていく。
西日が完全に落ちた通り沿いに、二人のスニーカーがアスファルトを擦れる音だけが鋭く響いていた。
無言で歩みを進めていると、駅が近くなって、いつも通る道が見えてきた。
はぁ、と思わず息が溢れると、怜が振り返って、「ごめん」と言った。
その目がいつになく真剣で、「だいじょうぶ」と返した。
マンションのエントランスを突き抜けた先にあるエレベーターに乗り込む頃には、息が上がっていた。
エレベーターの中でゆっくりと息を整える楓をちらりと見て、ボタンを押した怜が、もう一度「ごめん」と謝った。
さっきまで外の風は冷たかったのに、身体の内側からポカポカと熱が湧き出てきているようだ。
楓がまた「だいじょうぶ」と言うと、ドアが開いて、怜が楓の手を引いた。
腕を引っ張られるようにして玄関に入ると、ガチャンとドアが閉まった。
どさりと荷物を置く音がして、遠くで缶がコツンと床にぶつかる音がした。
暗い玄関に、自動でついた照明だけが二人を照らしていた。
荷物を置いて振り返った怜の頬も、少しだけ紅潮していて、そのままもう一度楓を抱きしめた。
「ごめん」
「ううん…」
はぁ、とこぼれた熱い息と共に返事をした。
「…ほんとに、俺のこと好きなの」
怜が小さな声で言った。
添えられるだけの手のひらが、先程とは違って少しだけ硬かった。
思わずその怜の背中に手を回すと、温かかくて、ゆっくりと上下していた。
「好きだよ…」
そう言うと、背中に回った手にきつく力がこもった。
背骨が反らされて顎が上がって、それが少しだけ苦しくて、思わずドアに背中をつけた。
怜が身体を少し離して、楓の顔を覗き込むようにして見た。
焦点が合わなくなるような距離の近さに、楓は恥ずかしくて目線を逸らした。
「ち、近いよ…」
「見せて、顔」
「や、やだよ…恥ずかしい…」
消え入るような楓の声が落ちていった玄関に、いつもより甘い怜の声が、柔らかく響いた。
「見たい。恥ずかしい顔、見せて」
そう言った怜に、顎をくい、と持たれ、強引に正面を向かせられる。
玄関の上から照らしているオレンジ色のライトが眩しくて、逆光で視界に入る怜の顔は真剣で、髪の毛が少しだけ透けて光っていた。
「…キスしていい?」
「だ、だめ」
しばらく目が合ったあと、真顔で落とされた言葉に、楓は思わず顔を背けながら返事をした。
「なんで」
不服そうな怜の声が聞こえ、再度力が込められた指で、正面を向かされた。
「は、恥ずかしすぎる…っ」
「…」
怜が少し黙って、無言の時が流れた。
だってだって、いきなりこんな、心の準備ができてないもん。
好きだって言うので精一杯だったのに。
この状況に耐えているだけで心臓バクバクしてるのに、これ以上キスなんかしたらもうどうなるか分かんないんだもん。
——目の前の楓を見下ろしているだけなのに、自分の鼓動が速くなっているのが分かる。
俺に顎を持たれてそれに素直に従って、薄暗い玄関でも分かるくらい赤い顔をした楓を見ると、それだけでたまらなくなる。
無理させたいわけじゃない、戸惑ってほしくない、嫌われたくない。
そんな気持ちは確かにあるのに。
それと同時に、心の隅に追いやっていたはずの唸るような欲望が立ち上がってきて、それを押さえつけようとするので精一杯だ。
分かっている、楓が恥ずかしいと思っていることくらい。
分かっている、拒否されていないんだということくらい。
それでも、少しだけ逸らされた視線と顔が、気に食わなくて、俺だけを、見てて欲しくて。
背中に回した手の、ニットの奥に柔らかさを感じて、
かわいくて、
「ひゃ、っ」
気づいたら楓の耳元に唇を寄せていた。
耳たぶを唇の先で摘むように、滾る気持ちの行先を、ついそこにぶつけていた。
ふに、と唇に感じる柔らかさと同時に、自分の息が荒く、茹だるようだ。
「っは、」
自分のものではない息遣いが耳に届いて、我に返って唇を離し、楓の顔を見た。
大きな瞳を潤ませて、楓がしばらく俺の顔を上目遣いで見たあと、小さく言った。
「怜ちゃんの、いじわる…」
意地悪なんかじゃない、その恥ずかしがる顔に、その存在に、ふっと理性が飛んだだけだ。
こんな未来があると思っていなかった。
いつか手を離れていくものだと、ずっと思っていたのに。
「ごめん」
「…いいけどっ、今のは、もうしたらだめ…」
「うん…」
さっきから、頭がうまく働かない。
いつものように、楓を気遣って、気持ちを察してやることができない。
優しくしたいのに、せっかく手に入ったのに、もう逃したくないのに。
「…あの……いっかい、だけなら」
「…?」
楓がチラリと、視線を戻して言った。
いつから、こんなに自分が思い通りにならなくなったんだろう。
「…一回だけなら、…しても、いいよ、…その………キス…」
「っ」
潤んだ角膜、緩んだ唇、薄い瞼に、濡れた睫毛が、
その全てが、
俺を狂わせて、止まらない。
「んっ」
重なる直前、至近距離で合わさった吐息が、玄関の冷えた空気を、一瞬で熱く塗り替えていく。
性急に、焦るように唇を押し付けた。
俺は、これから心臓が持つのかな。
かわいくて、愛おしくて、たまらない。
そんな存在が俺に視線を向けてきて、好きだと言ってくれて、今後も一緒に暮らしていくことに、耐えられるんだろうか。
ああ、だから、一緒に住むのは嫌だったのに。
「ん、」
いつか、自分が耐えられなくなって、この無垢で清廉な存在を汚してしまうのが嫌だった。
ずっと清く、正しく、決して触れてはいけないものとして、その成長を、見守っていきたかったのに。
「っ…」
唇を離すと、楓がずるずると玄関に座り込んだ。
腰を支えていた手を添えて、一緒にその場にしゃがむ。
いつの間にか啄むように、角度を変え、長く合わせていたようだ。
楓の息が少しだけ乱れていて、唇の端がぬらりと濡れていて、それだけで、俺の心臓はどくどくと波打つ。
「…ごめん」
「……な、…ながいよ…」
「ごめん…」
楓が潤んだ瞳で、俺を見上げるようにして視線を寄越す。
ごめんって思ってないでしょ、ときっと思っているのだろう。
こんな時でも楓の気持ちは何となく分かるのに、俺は理性を飛ばさないようにするので、さっきから精一杯だ。
「…いじわる、しないで…」
「ごめんね」
それでも、目の前の存在に嫌われたくなくて、機嫌をとるように謝ってしまう俺は、もう神経の隅まで、楓に侵されている。
「……甘やかして…」
「ん?」
「…怜ちゃんは、ずっと私のこと……甘やかしててよ」
そんなの、最初からずっと、そのつもりでいるよ。
玄関にへたり込んで、口元をその細い指先で隠すようにして、涙目でその原因の男を見つめて。
ああ、なんて無防備で、かわいいんだろう。
「…うん、死ぬまで甘やかしたげる」
俺はきっと、一生、楓には叶わない。
「……力、抜けちゃった…」
「え?」
「た、立てない…手ぇ引っ張って」
楓が情けない声でそう言って、思わず、ふはっと笑いがこぼれた。
伸ばされた指先を包み込むようにして引っ張り上げた小さな身体を、もう一度抱きしめた。
引っ張り上げられた楓の白いニットが、腕の中でくしゃりと重なった。
全てが思い通りにならない。
けれどその全てが愛おしくて、心地よくて、たまらない。



