キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
  
 
 
 
「えっねぇ待って、天国かも」
「それは良かった」

ショップ袋を二つ、腕に下げた怜と一緒に向かったのは、百貨店で開催されていたクッキーの催事で、入口からは既に甘いバターの香りが漂っていた。

色とりどりのクッキー缶が各店舗のガラスケースの中に並んでいて、見た目からして可愛くて個性豊かだった。

「見て怜ちゃん、あの缶、すっごい可愛い…」
「缶?中身じゃなくて?」
「缶のデザインも含めてクッキーなの」
「俺の知らん概念だ」

人気店の前には長い列ができていて、最後尾のプラカードを持ったスタッフの横を通り過ぎながら会話をした。

「楓、クッキー缶って賞味期限どれくらいなの?」
「中のものによるけど、二週間とかから一ヶ月が多いかなぁ」
「なんだ、数日とかじゃないんだ。じゃあたくさん買えば」

限定缶の見本がショーケースのスポットライトに照らされていて、試食用の小さなクッキーを手にした客が足を止めていた。
楓もふたかけらもらい、怜に一つあげた。

「たくさんって、クッキー缶って高いんだよ!大体四千円とかするよ」
「俺に買ってもらう気だったくせに」
「…そうだった、じゃあいいか。いくつまでいい?」
「調子乗んな」

怜に後ろから小突かれて楓は笑う。
朝、デートという単語の気まずさから言った冗談を、怜はちゃんと覚えていたらしい。試食で食べたクッキーは発酵バターの風味が美味しくて、好みだった。

店の名前や商品をちらりと見ては、人の間をするりと抜けていく。
ふと立ち止まってショーケースを見つめる楓を、怜が背中に手を添えて誘導した。
どうやら通行人の邪魔だったらしく、「すみません」と頭を軽く下げながら怜が言った。

「二つまでなら許す」
「ふはっ、甘すぎる」
「だから俺も食べる」

そうして結局、百貨店限定と先行販売の二つのクッキー缶を怜に買ってもらった。

厚焼きで珍しいものと、三種類のサブレが詰め込まれたもの、どちらも缶のデザインが可愛かった。
怜が「缶の可愛さが基準になるのが訳わからん」と財布を出しながら言っていて、楓はそれが面白かった。

「テンション上がるんだよ、コンサルなら分かるでしょ」
「要するに情緒的価値とパケ買いね、分かるけど俺の感覚にはない」
「パケ買いは流石に私も知ってるかも」

そんな話をしながら催事場を出て、とりあえず最寄り駅に戻ろうと電車に乗った。
混んでいる電車で、不規則に揺られながら楓はちらりと怜の顔を見た。

走行する電車の揺れに合わせて、怜の片手に下げられたショップの紙袋がかすかに音を立てていた。
夕方の低い西日がつり革を長く白く透過して、繋がれていない二人の手のひらの間を、生ぬるい空気が通り抜けていった。


なんだか、今日はすごく楽しかった。
何も気にしていない兄妹だった頃みたいな場面もたくさんあって、怜ちゃんに思い切り甘えられて、それでも手を繋いだり、耳元で囁かれたりドキドキして。

このまま家に帰るのが少しだけ勿体ないような気持ちになって、駅に着くと「喉乾いたし、お茶して行こうよ」とコーヒーチェーンに誘った。

近くに色々店はあったが、駅のすぐそばにある店舗ではなく、「限定のが飲みたいの」と少し歩く店舗を指定した。
怜は「はいはい」とついてきてくれた。




朝から出かけたはずなのに、いつの間にか十六時を過ぎていた。
目黒川沿いに建つ大きなガラス張りの建物は、外からでも銅色の巨大な焙煎タンクが見える。

天井は高く、吹き抜けになっていて、四階まで続く開放的な空間にはコーヒー豆の香ばしい匂いが広がっている。

「ここお酒もあるんだね、知らなかった」

可愛くておしゃれな壁や天井から垂れ下がっている装飾を見ながら席に座って、店舗限定のコーヒーを飲みながら、怜が言った。

「今度、夜に行ってみようよ」
「…いいけど」

楓の言葉に、怜が少しだけ間を置いて言った。

ガラス張りの店内からは、窓の外では色づき始めた街路樹が風に揺れているのが見えた。
ぼうっと景色を眺めているだけでなんだか満たされた気持ちになって、何となくまだ帰りたくなくて、ショートサイズで頼んだコーヒーを少しずつ飲んだ。

「…そろそろ帰る?暗くなってきたな」

そんな楓の抵抗も虚しく、しばらくして怜がそう言った。
スマホで時間を確認すると十七時になるところだった。もうすっかり冬に近づいていて、日没も早いんだな、と思いながら頷いた。


四階まで吹き抜けた高い天井の向こうで、ガラス越しに見える空が、輪郭を失っていく。

テーブルの上のプラスチックのカップには、飲み残された琥珀色のコーヒーが、店内の焙煎機を反射していた。

楓は飲みきれなかったコーヒーを手に持ちながら、駅までの道を歩いた。
目黒川沿いにはゆっくり散歩する人たちがいて、落ち葉が風に煽られて、転がっていった。



「聞きたいんだけどさ」
「ん?」

怜が歩きながら、口角をきゅ、と上げて楓を見た。

「…今日の昼に言ってた、怜ちゃんはそのままがいいって言葉は、どういう意味?」
「え?」
「兄のままでいて欲しいって意味だった?」

空気は乾いていて、頬を撫でていく風は少し冷たい。
怜に見つめられて、自分の言葉を脳内で必死に思い出す。

そういえば、そんなことを、何気なく発した。
真逆の、意味のつもりだった。


「俺が勝手に解釈して…前みたいに、また楓を戸惑わせたら嫌だし…聞いておこうかなと思って」
「え…」

ふ、と諦めたように笑いながら目線を外した怜が、前を向いた。
温かった日差しがなくなっていて、ニットの隙間から入ってくる風がひんやりと感じた。

「楓も今日は昔みたいに、たくさん笑ってて自然でさ。そういう関係が一番楽しくて、望んでるんじゃないかって…ちょっと思って」


それは、だって、


「俺は、どっちにしても楓から離れることはないと思うし。いなくなるのが嫌だからって思ってるなら、そこは安心して欲しいから…」
「いなくなるなんて、イヤだ」


怜の言葉の途中だったのは分かっていた。
けれど、考える前に、口から音がこぼれていった。


「うん、だから、」
「お兄ちゃんじゃなくなるのもイヤだし、ずっとお兄ちゃんでいて欲しいし、でも……ずっとお兄ちゃんのままなのも、イヤだ」


自転車が川沿いを静かに通り過ぎていった。
ひゅう、と流れていった風が、落ち葉と共にスカートを少しだけ巻き上げた。


「…え、」
「れ、怜ちゃんは…私がずっと、妹のままで、いいの?」
「…かえで、」


手に持ったままのプラスチックのカップが、くしゃりと少しだけ歪んで、ぺこ、と情けない音を立てた。



「お兄ちゃんでも、お兄ちゃんじゃなくても……っ、ずっと…一緒にいてよ……」



怜が立ち止まって、楓の足も止まった。
遠くから、電車の走る音が聞こえてくる。
握りつぶされたプラスチックの隙間から、わずかに残った冷たい液体がカップの底で小さく揺れる。


口の中が、じんわりと残ったコーヒー豆の苦味でざらざらとしている。
すっかりと日没を迎えて色を落とした川の水が、街灯だけを反射していた。


「…最近、たまに…もしかしてって、思ってたけど」


しばらく黙っていた怜が、静かに口を開いた。
そして、街灯に照らされたアスファルトを見つめる楓の元に、斜め前にいた怜が一歩近づいた。



「…俺のこと……好き、だったり…する?」



怜の声が、小さく掠れて川の水音に紛れていった。

親指が、結露したプラスチックカップの水滴で、つるりと滑った。
じとりと濡れた手のひらは、汗か滴か、もう分からない。




「そうだよ……」




消え入るような声だった。
息を吸ったはずなのに、はぁ、と浅い息が漏れていった。