「この後は違う服屋行くの?」
「ううん、怜ちゃんの服見に行くの」
「俺の?なんで?」
「選びたいから」
ガラス張りの店内には柔らかな昼の日差しが差し込んでいて、レモングラスとナンプラーの独特な香りがふわりと鼻を掠めた。
怜がガパオライスをスプーンで掬いながら、眉を顰める。
「俺のはいいよ、楓の服見ようよ」
「さっき買ったもん」
「一着だけじゃん、もっと買うのかと思ってたのに」
先ほど買ったニットは一応手が届く値段ではあったが、普段の店よりは背伸びしてしまったので今日は終わりにしようと思っていた。
怜ちゃんみたいに稼いでるわけじゃないんだから、と思いながら楓は海老とアボカドのグリーンカレーを口に運んだ。
「いいの、怜ちゃんが選んでくれたあの赤ニット気に入ったから。今年はあれを大切に着るの」
「…またそういうこと言って…」
「え?」
「なんでも。俺の服ねー、ずっともう買ってねーな」
辛さ控えめ、ココナッツミルク多めで頼んだグリーンカレーは、メニュー写真の彩りが綺麗だったからだ。ココナッツミルクの甘い香りの奥に青唐辛子の刺激が潜んでいて、舌にぴりりと響いて美味しかった。
「じゃあちょうどいいじゃん」
「別に必要性を感じないんだよな、まだ着れるし」
「私が選びたいのー、怜ちゃんの服ー」
「なんで?」
怜がそう言って、「はい、ガパオ」とスプーンに乗せたガパオライスを楓の目の前に運んだので、楓は素直に口を開けた。
楓がガパオライスも食べたいなと思っていたことくらい、口には出さなかったがきっと怜はお見通しだった。
「美味い?」
「カレーが辛くて味よく分かんない…」
「ふはっ、じゃあもう皿ごと交換しよ」
怜がそう言って、楓と自分の皿を交換した。
そう言えば、いつもこうしてくれていた。あれは、兄だったから?
皿に残ったままのスプーンを意識してしまうのは、私がもう、妹じゃないから?
「カレー、これそんな辛いか?辛さ控えめにしてたし別に普通じゃん」
「ずっと食べてると麻痺するの」
怜の言葉に、楓はそう言いながらジャスミン茶を喉に流し込んだ。
カラン、という氷の音と共に、花のような香りが立ち上って鼻に抜けていった。
「今日の俺の服はどう?」
「え?」
「朝言われたけど、ちゃんと楓のご希望通りの格好が出来てますか、俺は?」
怜がそう言って、唇の端をぺろりと舐めて言った。
眉を少しだけ上げて、その口元は楽しそうに歪んでいる。
今日の怜は、少し太めのデニムに黒のトレーナー、下に覗く白シャツをレイヤードさせていた。トレーナーには刺繍されたキツネが小さく胸元に入っている。
「…いいんじゃないですかね」
「それは良かったです」
楓の胸の内を分かったかのように怜はくしゃりと笑い、カレーを口に運んだ。
ここでかっこいいと言えればいいのかもしれないが、怜相手に口にするのがどうにも恥ずかしくてたまらない。
「で、残りはどっち食べる?カレーは俺が食べればいい?」
「うん…」
「はいはい、辛いですって書いてあるのに見た目がいいとか言って選ぶから」
今まで無数にこんな場面はあったような気がするけれど、全然気にしていなかったのに。今日はやけに怜の兄としての行動が、目につく気がする。
「子ども扱いしてるでしょ…」
楓が悔しそうにそう言ってガパオライスを口に運ぶと、怜は口元を手で抑えて笑った。
皿の底に溜まった黄身が、タレと混ざってマーブル模様になっていく。
「じゃあ、どうしてほしい?」
「え?」
「楓は俺に、どうしててほしい?」
怜がそう言って、楓は少しだけ言葉に詰まる。
どうして欲しいって、そんなこと考えてない。
けれど最近、私はちょっと、怜ちゃんにくっつきたい。
だから、頑張ってるんじゃないか。
「…怜ちゃんの、やりたいようにしてていいよ」
「俺のやりたいようにしていいの?」
天井のスピーカーから異国情緒のある音楽が静かに流れて、時折食器が触れ合う軽やかな音が聞こえている。
ガラス越しの空は高く澄んでいて、十一月らしい乾いた光が差し込んで、氷に反射した光がテーブルを煌めかせている。
「…怜ちゃんは、そのままが、いいんだから」
「……ふ、ありがと」
しまった、ここで好きだと言えば良かったのかもしれない。
そう気づいたのは、怜がいつものようにきゅっと口角を上げてカレーを口に入れたのを見てからだった。
「怜ちゃんこれ着て、これ」
「えー青ー?」
食事が終わった後、先ほどのビルに戻って、メンズのセレクトショップに入った。ふらりと怜の後をついて見ていた楓が、マネキンの横に畳まれていたさらりとしたニットを手に取って渡すと、怜は眉を寄せて渋い顔をした。
「くすみブルー!ていうか、私には真っ赤を勧めたくせに!」
「一緒に着たら信号機になるじゃん」
「ふっ、ならないよ」
笑いながら楓が怜の身体に無理やり合わせると、怜はされるがままで、鏡に映る自分を見ていた。
落ち着いた照明にはメンズフロア特有の静けさがあって、鏡の周りにはウールコートやニットが整然と並んでいた。
「どう?よくない?」
「全然よく分かんないけど。まぁ楓がいいっていうなら買うか」
「わーい」
怜がそれを受け取った。
そして周囲をちらり、と見渡して店員がレジカウンターにいることを確認した。
そうして、楓の耳元に口元を近づけて言った。
「これ着たら、楓が言ってた、“かっこいい格好” になる?」
「……さっき、いいねって言ったじゃん」
「それじゃだめでしょ」
目の前にはコートがかけられた棚と、ニットが並んだテーブルがあって、背の高いマネキンが周囲の視線を遮っている。
柔らかなジャズが流れている店内では、耳元で囁かれた怜の声が鼓膜を大きく震わせる。
「自分だけ褒められて終わりっていうのは、ずるいんじゃない?」
きっと、その口元は楽しそうにまた歪められている。
余裕そうな顔で、こちらを見ているに違いない。
「…怜ちゃんは、かっこいいよ……」
言ってから、耳の奥まで熱くなった。
服を褒めれば良かったはずなのに、気づいたらそう口から漏れていた。
かっこいい、と怜を真面目に褒めたことは、きっと今までほとんどなかったはずで。
告白だデートだ、そんな単語で頭がいっぱいだったからするりと出てきてしまった言葉に、後から恥ずかしくなって耳が熱くなる。
「ありがと、楓もかわいいよ」
怜の声がそう機嫌良さそうに聞こえて、スッと離れていった。
レジに向かうその手には先ほどまでのニットがあって、くすんだブルーの袖がその先からたらりと垂れていた。
トーンを落とした間接照明が、立ち尽くす楓を静かに照らしている。
こんなの、なんかもう、カップルみたいで耐えられないんですけど。
きっとこの話を桃香に言ったら絶対に呆れられるであろうことが楓にも分かって、赤くて熱い頬と耳から必死に意識を逸らそうとした。
頬に手を当てると、ぺたりとファンデーションが感じて、とりあえずお手洗いに行かなければと思って、しばらくしてから怜の後を追った。



