「…れいちゃん?」
深夜になぜだか目が覚めて、お手洗いに行った。
リビングに電気が付いているのを見て扉を静かに開けると、ソファに座ってパソコンを見ていた怜が振り返った。
「どうしたの」
「なんか、起きちゃった…」
疲れていて早めに眠ったからだろうか、明日は休みだからゆっくり寝ていようと思ったのに。
「ゆっくり寝てな」
ふっと優しく笑いながらそう言った怜が、また背中を向けてパソコンに向かった。
その背中を見ていたら寂しくなって、リビングの光で目が冴えてしまった楓は、怜の隣にぎしりと腰掛けた。
「…どうしたの」
「怜ちゃんこそ、なんでこんなところで仕事してるの」
「部屋でやってたけど、集中切れたんだよ。気分転換」
怜がそう言いながら、ブランケットを楓に手渡した。
楓はそれを受け取って、身体を覆うようにくるまった。
「寝ないの」
「…目、冴えたもん」
「ふうん」
怜はそう言って楓から目線を逸らし、膝の上に置いていたパソコンをカタカタと入力し始めた。
よく分からない資料が広がっていて、すいすいとマウスを使わずに移動しながら次々と何かを打ち込んでいる怜をぼんやりと見つめていた。
「…ふ、気になるんだけど」
楓の視線を感じてか、怜がそう言って笑って、パソコンから目を上げた。
きっと今自分は髪の毛もボサボサで、目は半開きで、怜の集中を乱している。
「…ここにいたらだめ?」
「いや?楓がいたいならいいよ」
「集中力切れちゃう?」
「別に。また眠くなるまでいたらいいよ」
部屋に戻れと言われないことは分かっていて、そう言った。
どうしてだろう、なぜだか最近は、怜に前みたいにわがままを言いたくなる。
お兄ちゃんとして頼り切って甘えていた頃みたいに、怜がどこまで甘やかしてくれるのか、試しているみたいだ。
「あ、そういえば、また沼津行くよ」
「そうなの?」
「うん、次は日帰りだけど。それで最後かなー沼津の案件は」
「…私のため?」
怜はパソコンから目を離さないまま、キーボードの入力も止めないまま少しだけ鼻で笑うようにして「どうだろうね」と言った。
「なにそれ」
「いつでも自分の思ってる答えが返ってくると思ったら大間違いなの」
「…いじわる」
今の怜は仕事モードなのか、淡々と言葉が返ってくるばかりだ。
パソコンの中には先ほどよりも文字の列が増えていて、チャットツールでの返信を読んでいた。
リビングの時計は二時を指していて、こんな時間まで仕事をしている人が他にもいるんだ、と思う。
「ふ、どっちが」
「私いじわるなんかしたことないじゃん」
「まぁ、意地悪っていうか無防備かな」
「…どういうこと?」
怜が時計をちらりと見上げて、楓を覗き込むようにして見た。
「こんな時間に、甘えてきたらだめ」
その意味を分からないふりをしたのは、咄嗟の判断だった。
「どういうこと」と脳を通らずに出た言葉に、怜はふっと笑ってなにも言わなかった。
深夜のリビングに、パチパチと黒いキーボードが沈んでは戻って、怜の短い爪とプラスチックがぶつかり合う音だけが響いている。
「……今は、なんのお仕事してるの」
「んー…ステコミ向けのデリバブルのブラッシュアップと、アナリストが回したローデータのクオリティチェック。あとはリーガルのファイナライズ」
「絶対わざと難しい言葉使ってるじゃん。普段そんなんじゃないでしょ」
「ふ、バレたか」
怜が画面を一瞬で切り替えて、誰かにチャットを返しながら口元に笑みを浮かべてそう言った。いなされるような態度に、いつもだったら邪魔かなと遠慮するが、今日はなんだかむしろ、邪魔をしたい気分だ。
「難しい言葉使わなかったら何になるの」
「ん?さっき俺なんて言ったっけ。やってることが多すぎてもう分かんないかも」
「…適当じゃん」
楓がぼそりと言った言葉に、怜はちらりと視線をよこした。
なんだか今日は、怜との距離が遠い気がして、それがとても気に入らない。
怜は明日仕事だし、もしかしたら急ぎかもしれない。早く終わらせたいかもしれない。
「…かまってよ」
でも、でも、だって私は妹だもん。
ちょっとくらい、甘えたっていいじゃん。
だから、困らせたって、いつもみたいに許してよ。
「……構ってるよ」
怜がそう言って、画面を見たまま仕方なさそうに笑った。
楓はじり、と怜との距離を詰めた。怜のキーボードを叩く音が一瞬だけ止まる。
「…いじわる」
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
衝動的に、隣にあった怜の肩に、ふわりと頭を乗せた。
頭から被っていたブランケットを抱えた膝にかけるようにしてくるまった。
怜の手元が止まったことに気づいていた。
それでもたまに、少しだけ腕が動く気配がした。
「…どうしたの」
「……落ち着くから」
「え?」
「怜ちゃんの、傍。…落ち着くから」
怜がどんな反応しているかも見たくなくて、目を瞑った。
薄暗くなる瞼の裏には、リビングの照明の形が少しだけ残って見えた気がした。
「…眠いなら部屋で寝な」
「……ちがう、そばにいたいだけ」
寄せる肩からは、気持ちのいい温かさと小さな鼓動が伝わってきて、それがとても心地良かった。
「…膝、使う?」
「え?」
「サイドテーブルにパソコン置くから。眠いなら、俺の膝で寝る?」
怜はカタカタと指を動かしたまま、「肩だと振動で動くでしょ」と言った。
時折画面の端に表示されるチャットに目をやって、プレゼンらしき画面を行ったり来たりしていた。
真横にいる怜の顔は分からなかった。でもきっと、今はお兄ちゃんの怜ちゃんだ。
「…うん」
楓はそう言って姿勢を起こすと、サイドテーブルを怜の横に動かした。
——いつしか、「サイドテーブルが欲しい、映画見てる時に飲み物をそこに置きたい」と楓がぼやいたら、「目の前のローテーブルに置けばいいじゃん」と怜が言った。
「ソファにくっついてる感じがいいの、見てこの女優さんみたいな感じ!」とスマホの画像を見せると、「この人のリビングには目の前にテーブルがないからこういうのを使うんだよ」と怜は呆れて言った。
正論に不貞腐れていた楓だったが、数日後にリビングに届いた段ボールを開けると、ソファに移動式でセッティングできるサイドテーブルが入っていた。
驚く楓に、「調べたら思ったより安かったし、パソコンも置けるっぽかったから」と仕方なさそうに笑って、怜が言った。——
そう、怜ちゃんは、昔から、今も、ずっと私を優先してくれていて、甘やかしてくれていて。
「はい、どうぞ」
怜の膝から下ろされた黒いパソコンが、サイドテーブルの木目に静かな音を立てて置かれた。
そして、ぽん、と膝にクッションを置いた怜が、楓を見た。
口角がきゅっと上がっていて、お風呂上がりのままのふわりと柔らかそうな黒髪が、真ん中で別れて流れている。
少し気だるげな瞳が、真っ直ぐ楓を見て、少しだけ笑う。
ああ、私、怜ちゃんが好きだ。
恋愛になって、もし失ったらと思うと怖かった。
ずっと妹でいれば、そばにいれると確信していたから、気づきたくなかった。
三浦に言われた言葉を、脳裏で反芻する。
『でも、ずっと傍にいたかったわけで。だから一緒に住もうって提案したんじゃない?』
そうだよ、私、ずっと、怜ちゃんと一緒にいたかったの。
でももう、それだけじゃ嫌なの。
兄として失いたくないと同時に、男のひととして、私だけの怜ちゃんでいてほしいの。
私のこと、ずっと甘やかして。
仕方ないって顔もいいけど、あの熱を孕んだ瞳に、また会いたい。
私のこと、好きだって、言う、あの真剣な顔が、また見たい。
「…おやすみ」
楓はそう言って、怜の膝に寝転がった。
薄いクッションが頬に掠れて、その生地はさらりとしていて気持ち良かった。
手のひらを怜の膝に何気なく置くと、骨を感じて少しだけ恥ずかしかった。
「おやすみ」
柔らかい怜の声が上から降ってきて、楓はゆっくり目を閉じた。
なんて、安心する声なんだろう。
ああ、境界線が、溶けていく。
ふわりと意識が漂って、キーボードを叩く音が遠ざかっていって、ずっとそれを聞いていたいような気持ちを感じながら、ゆっくりと堕ちていく。
「…寝た?」
しばらくして、遠くで、怜の声がした。
聞こえているはずなのに、意識も身体も動かせなくて、このまま心地よくて温かい波の中にいたくて、楓は眠りについた。
「…ぜんっぜん、仕事、進まねー…無防備すぎんだろ…」
くしゃりと髪の毛をかきあげる怜がそう言った言葉は、もう楓の耳には入ってこなかった。
怜は楓の寝息を聞きながら、必死になって往復していたタブの一つを保存して閉じた。
深夜二時、資料の修正だけで終わる予定が先ほど発覚した後輩のミスの対応と、法務から飛んできた最終確認で、頭の中は仕事でいっぱいのはずだった。
膝の上から伝わってくる楓の一定で浅い寝息に合わせて、怜のスウェットの生地が微かに上下している。
「はぁ…俺は甘いな…」
それでも、嫌な気はしない。嫌な気どころか。
怜は自然に上がる口角に気づかないまま、必死に膝から意識を逸らして、ひたすらセルに並んだ無数の数字だけをただ淡々とスクロールし続けた。



