キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 

 
「…帰る?そろそろ」
「うん…」

アイスが空になった頃、怜がガラス窓の外を見ながらぼんやりと言った。
空はまだ青かったが、スマホの画面には十七時を指していた。

黙ってゴミをダストボックスに入れに行く怜の後ろ姿をぼんやりと見ていると、戻ってきた怜が「ん?」と首を傾げた。
その何気ない顔に、胸がぎゅうと締め付けられた気がして、そういえば、いつもそういう片付けもしてくれていたな、と思い出した。
同居の話を切り出したスタバの光景が脳裏に浮かんで、その時とは違う気持ちが少しだけ恥ずかしかった。

「なんにもっ」
「なにそれ?」
「いいの、早く行こ!」

イートインスペースの奥にある階段に差し掛かると、怜は楓の手を取った。
思わず怜の顔を見ると、少しだけ意地悪そうな顔をしながら、口角をニヤリと上げた。楓は目を逸らしながら階段を降りる。

「今日はヒールだもんね、俺のためにね」
「…怜ちゃんのためじゃない」
「あれ?違った?さっきの店ではそんなこと言ってたようなー」
「言ってない、聞き間違い!」

ああもう、新大久保のビルはなんでこんなに階段が細くて一段が高いの。
ランチの店での既視感を覚えながら、楓は手元より足元に集中しようと足元を見た。

まだ数回しか履かれていない黒いショートブーツは、革がつるりと張っていて、甲の部分だけうっすら細かい皺が入っていた。

「転んでもいいよ?受け止めてあげるから」
「ちょっと、静かにしてよっ」

絶対ににやりと笑っているであろう怜の顔を意地でも見たくなくて、足元に広がる段差だけに集中した。
外を出ても手は繋がれたままだった。
駅に向かう途中でメガネ屋のガラスのショーウインドウで自分の姿が映っているのを見て、急に自分の服装が気になった。

もうちょっと、丈の長いワンピースとかの方が、大人っぽく見えるだろうか。
そういえば、怜ちゃんの今までの恋愛とか、聞いたことがないな。

そんなことを思っていると、怜が後ろを振り返ってくすりと笑った気がした。
ショーウインドウを見ているところを見られたのだろうか。

「腹いっぱいなんだけど」
「ね、夜いらないかなー」
「いいよ無しで。楓と一緒に住むようになって太った気がする」
「えー?変わんないよ」
「むしろなんで楓は太ってないの?あんなにお菓子とパン食べてて」

改札に向かいながら怜がそう言った。
夕方になって人がまた増えた気がして、その人の波をすいすいとかき分けてくれる。
ピッという改札の電子音が周囲で行き交う中、薄暗い階段のコンクリートを大勢の靴底が交互に踏み締めていく。

「私よく職場から家まで歩いてるよ」
「え、そうなの?二十分ちょっとかかるでしょ」
「うん、でも甘いもの食べたいし、いい運動になるし」

楓がそう言って、手を離して改札の電子版にスマホをかざした。
ピッという軽快な電子音が流れて改札が開き、前で待っていた怜が再び手を繋ぎ直した。

「残業する時は教えて、行ける時は迎えに行く」
「…怜ちゃん仕事じゃん」
「危ないからだろ、一本大通りから外れたら普通に暗いし」

駅の薄汚れたコンクリートの階段は、今日行ったビルとは違って歩きやすかった。
少し前を歩く怜の手元に繋がれた自分の手は、ネイルも塗られていなくて爪も短い。
でも怜は、きっとそんなこと何も気にしていないんだろう。

前だったら、悪いよと断っていた。
けれど繋いだ手の温かさと回数に安心して、思わず言葉がこぼれていた。

「…じゃあ、連絡する」

斜め前の階段を登る怜が、ちらりと振り返った気配がした。
きっと口元には意地悪な笑みが浮かべられているのだろうと思って顔を見上げると、少しだけ下がった眉に、口角が短くきゅっと上がっていた。

仕方なさそうな、笑み。
そういう時は、お兄ちゃんなんだ。

おかしい、こんなの、私だけが全部そういう目で見てるみたいじゃん。
ずるい、私のこと、好きって言ったくせに。


早く好きになってって、言ったじゃん。



階段を登り切ると、吹きさらしのホームに少し冷たい風が流れ込んでいた。
少し前を行く怜のキャメルの上着を羽織った背中が、吹き込んでくる風に小さく膨らんでいた。
電子掲示板の文字を見つめる怜の後ろ姿を見て、また心臓がきゅう、と音を立てた。















「めっちゃデートしてんじゃん」
「……はいぃぃ…」

ズズズ、と担々麺のスープをレンゲで啜った桃香が、少し呆れた声を出した。
目の前では藤子がニコニコしながら背筋を伸ばして、上品に麻婆豆腐を口に入れていた。

「なに?ここまできたらもう全部いいなよ」
「…桃香さんと竜さん?は、どうやって付き合ったんですか…」
「私らの話!?逃げんな、ちゃんと向き合え自分の気持ちにー!」
「ここの麻婆豆腐、美味しいのよねぇ」

今日は楓のレッスンに参加してくれた藤子と、三人でランチに来ていた。
もはや定番と化したランチ会は、藤子がおすすめしてくれた、おしゃれな中華料理屋に来ていた。

路地を一本入った場所にある低層ビルの二階にあって、八角の香りとごま油の匂いがふわりと漂っている。

「だからさ、〝兄〟と〝彼氏〟は両立できるんだからね?」
「ハイ…」
「担々麺が伸びるわよぉ」

桃香が悔しそうな顔をして麺を啜った。
話したい気持ちと食欲が戦っているらしく、口をもぐもぐと動かしながら視線があちらこちらに動いている。

コンクリート打ちっぱなしの天井と、壁にはモノクロの上海や香港の古い街並み写真が並んでいる。
奥には大きな窓があり、代官山の街路樹が黄色く色づき始めていた。

「兄じゃなくなる、とかないからね?別で考えなくても、彼氏みたいなお兄ちゃんもお兄ちゃんみたいな彼氏もそんなに変わんないから」
「ハイ…」

そんなの、もう分かっている。
桃香に聞きたかったのは、告白ってどっちからどうやってしたか、なのに。
もう今までの恋愛とは違いすぎて、過去の経験が何にも参考にならない。

藤子の皿の麻婆豆腐は空になりかけていて、かなり赤くて熱そうだったのにどうしてこの人はこんなに上品に食べられるんだろう、などと考えていたところだった。

楓の目の前に置かれた蒸篭の中で、手付かずの小籠包が湯気を立てている。

「お兄さんとは、十年の付き合いだったかしら?」
「あ、はい…」

藤子がナフキンで口を軽く拭いた。
楓が小籠包をレンゲに移すと、ふにゃりと重力に従って垂れた皮の先が、ほろりと千切れた。

藤子が静かに、楓を見た。


「十年間ずっと存在していた恋に、やっと名前がつくのね」



つぷりと箸を入れた瞬間、艶々とした琥珀色のスープが溢れ、レンゲからこぼれた数滴が、ぽたりと蒸篭に落ちていった。



「はい……」



ああ、認めてしまった。