キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
「新大久保ね…数年来てないな…」
「やばい予約ギリ!急いで怜ちゃん!」
「はいはい」

狭い駅の改札前には、待ち合わせらしき人たちが多く集まっていて、その間をすり抜けるようにして楓は怜の背中を押した。



あの後、「なにしてんの?」と洗面所から顔を出した怜に声をかけられ、慌てて「足のネイルが剥がれてきてた」と立ち上がった。

出かける場所は楓の好きなところでいいと言われ、SNSのブックマークを遡って決めたのが、以前動画で見て気になっていた韓国料理屋だった。
当日の朝だったが予約は取れた。

「歩道が狭いから、気をつけろよ」

怜がそう言って、ちらちらと振り返りながら前を歩く。
片手にはスマホのマップ画面が見えて、楓が送った店を検索していたらしい。

「うん…」

昼時の大通り沿いは、焼いた肉の匂いと甘い香りが入り混じっていて、見上げればハングルの看板が隙間なく並び、若い女性たちの姿が目立つ。

道路脇に置いてある自転車を避けようとして、怜との距離が空いた。
その時は怜は前を向いていて、楓はその後ろ姿を急いで追った。

追いついた時にちらりと目があって、楓の姿を確認した怜がまた前を向いた。
怜が羽織っているキャメルのコーデュロイ生地のシャツが風でひらりとはためいて、楓は少しそれを目で追った後、先をぎゅっと握った。


怜が振り返って、楓の顔を見て、掴まれた裾を見た。

視線が少しだけ泳いだ後、眉を寄せて恥ずかしそうにした怜が再び前を向いて、スマホと反対の手をひらりと黙って差し出した。

楓はそっと裾を離して、その手のひらを握った。
すぐにぎゅっと握り返された手は、あの時と同じように少しだけじとりと湿っていたように思った。











「絶対にあの唐揚げは要らなかっただろ」
「唐揚げじゃない、チキン!だってああいうのはお店でしか食べらんないじゃんっ」
「同じじゃん。ていうかそういうのは全部自分で食べてから言うんだよ」

食事が終わった後、怜が狭い手すりのないビルの階段を前を向いて降りながら、振り返って楓に言った。楓は怜の正論に返す言葉がない。
楓が調子に乗って頼みすぎた食事は、怜の腹に収まっていた。

トイレの帰りついでに支払いを済ませてくれていた怜に「ごちそうさま」と言うと「当たり前じゃん」と言った。

なんだか今日は、怜が兄に戻ったような感覚に陥る。
前を歩いてくれたり、食べきれない食事を食べてくれたり、わがままを言っても甘やかしてくれている気がして、つい楓も、前みたいな軽口を叩いてしまう。

「ん」

慎重に階段を降りるのを見た怜が、手を差し出した。
「…ん」と楓が差し出された手に乗せると、怜はきゅっと口角を上げて、一段ずつゆっくりと降りてくれた。

「そんな高い靴、履いてくるから」

楓の足元を見て怜が笑った。
少しだけヒールのある黒いショートブーツは去年買ったものだが、なかなか履けていなかったものだ。

「…だって、その方が怜ちゃんの身長に追いつくかなって思って」

少しでも大人っぽく見えたらいいなと思って、白いシャツワンピの上に重ねた薄手のニットは黒にした。
初任給で買った、憧れの少しだけ高い革のバッグにも合うと思ったからだ。


怜が階段からちらりと楓に目線を向けて、「…ふうん」と言った。
一階に降りても、繋いだ手は離されなかった。

「…次はどこ行くの」
「コスメ見たい!その後ヨーグルトのアイス食べる」
「はぁー?俺に唐揚げを無理やり食べさせたくせにアイス?」
「それはごめんって、あと唐揚げって言うのやめてよっ」

ガラス張りのコスメショップの店先には新商品のポスターが何枚も並び、店内から漏れる白い照明が歩道まで明るく照らしていた。

楓が先に入ると、手を繋いだままの怜が背後で「女子率…」とぼやいた。
でも前のように、外で待っていいかとは言われなかった。

テスターを試したり商品を見たりしているうちに自然と手は離れた。
店内のモニターに映し出されている韓国アイドルのPVをじっと見ている怜がなんだか面白かった。

「ねぇ、このアイシャドウの色可愛くない?」
「…色が可愛いって何?」
「こっちとこっちなら、どっちがいいかな」
「……ピンクの方が可愛いんじゃない」
「適当じゃん、どっちもピンクだし」
「俺に聞くのが間違ってる」

興味は全く無さそうな怜だったが、楓が手に取るものをじっと見つめたり後をついてきたりしていて、スキンケアのコーナーでは物珍しそうに、プレートの日本語の上に記載されいるハングルをじっと見つめていた。

「あー…この形が共通で、要するに漢字で言う辺みたいなことか」
「すご、そういうところから学ぶんだ」

怜はふっと口角を上げて、「尊敬する?」と言った。
言い返そうと思った楓だったが、少しだけ考えた後「いつもしてるよ」と言った。

「え?」
「頭いいのも、仕事できるのも。……仕事があってもご飯の時は来てくれて、映画とか見てくれてるのに、私が寝た後に仕事してるのも、尊敬してるよ」
「……」

透明なガラスの美容液のボトル、成分表示はハングルで何が書いてあるのか分からない。でもその文字を見つめたまま、楓は言った。

怜の顔は、見られなかった。

恥ずかしくて、慌ててテスターの奥にあった箱を掴んで、その場を離れた。
ちゃぷ、と少しだけ手の中で水が跳ねる感触がした。




コスメの店を出ると、怜が自然に楓の手を取った。
もう口実がなくてもいいのだと思うと、少しだけ安心した。

アイスのお店は少し混んでいたがテイクアウトをする人が多いらしく、二階にあるイートインスペースは空いていた。

軽い口論の結果、一つのアイスを分けることになって決着がついて、怜が買いに行ってくれた。

「やっぱりチョコもトッピングすれば良かった」
「このままの方がさっぱり食べれていいよ」

小さなテーブルに向かい合わせになって、スプーンを二つ持ってきてくれた怜とカップに入ったアイスを食べる。

「…楓」
「ん?」

カップの中には白いヨーグルトアイスが高く盛られ、その上に乗せられたフルーツが照明を受けて艶やかに光っていた。
スプーンですくうとフルーツがコロリとカップの下に転がって、それを目で追っていると、怜がふと言った。


「…なんで今日はそんなにかわいいの」
「なっ」


不意打ちの言葉に、楓は咄嗟に怜の口を手で押さえた。
狭い店内では机と机の距離が近く、一つ空いた先のテーブルには若い女性の三人組が座っていた。

「聞こえたらどうすんの…」
「聞こえないよ」

ちらりと目線を下げて、自分の口元に楓の手を見つめた怜が、何でも無さそうな調子でもごもごと言った。

怜ちゃんは分かってないんだ、女子の聞き耳がどんなに広範囲に及ぶか、まして友達と遊んでいる時の近くのカップルの会話とか、すっごい話のネタになるんだから。

そんなことを思いながら、少しだけ周りを見渡す楓を見て、怜はふっと笑った。
手に吐息がかかって、その瞬間、


「ひゃっ」


ぺろりと手のひらを舐められて、楓は勢いよく怜の口元から手を離した。
思わず大きな声が出て、女性のグループがこちらを見た気がした。

その様子を見ながら怜は楽しそうに笑みを浮かべていて、舐められた手のひらを握りしめたまま、楓は怜を見つめた。

「楓」
「…なに…」

怜は機嫌が良さそうに、スプーンでアイスをすくって口に入れた。
テーブルの上に置かれたカップの底には、溶けかけた白いヨーグルトの雫が、ゆっくりと底へ垂れていく。


「…はやく俺のこと、好きになって」


離した手のひらの中心に、怜の唇の熱がかすかに残っている。

何かがじわじわと溢れ出して、足元をすくっていくような感覚がする。
私、もうあんまり、耐えられないかも。