しばらく、お互いが無言だった。
怜のワイシャツに鼻が当たって息が少しだけ音を立てていて、それが恥ずかしくて顔を離した。
思ったよりも衣擦れの音が深夜のリビングに大きく響いて、怜がふっと身体を離した。離れた瞬間、ワイシャツの機械油の匂いが鼻の奥に残っていた。
「…えっと……」
恥ずかしくて怜の顔を見られない。
心臓が早鐘を打っているように、全身の血液を勢いよく押し出しているようだ。
楓は下を向いて、怜のワイシャツをゆっくりと離した。
怜の手のひらは背中に添えられたままで。その感触を意識しながら、自分のくしゃりとシワになった部屋着のTシャツを見つめていた。
「…ごめん、力、強かったかも」
怜がそう言って、そっと離れた。
それがほんのり寂しくて、離れていく怜のスラックスをぼんやりと見つめていた。
背中に残っていた手のひらの温度が、ゆっくりと冷えていくのを感じた。
「ううん…」
自分の声が少しだけ裏返った気がして、先程までの場所にゆっくりと戻る怜を、視界の端で追った。
「…こないださ、一週間、寂しい?って楓に聞いたじゃん」
「……うん」
怜が低い声でぽつりと言った。
力が少しだけ抜けて、ずるりとソファの背に背中をもたれさせた。
「……俺の方が寂しかった」
「…え」
「毎日、家には楓がいてさ、楓のご飯食べて、楓の気配があって、家が賑やかでさ」
「…うん…」
足元に落ちていたブランケットを拾い上げて、それを自分の膝に掛け直した。
怜がその動きをふっと追ったのが分かって、それも恥ずかしかった。
「だから…なんていうか………会いたかった」
「……」
私も、と思った。
言葉が口から出る前に、その意味に気づいて、息が止まった瞬間、低い音を立てて、ぐう、とお腹が鳴った。
「〜っ」
そういえば夜ご飯はゼリーしか食べてなかったんだと思い出した。
絶対に聞こえたであろう怜から隠れたくて、楓はブランケットを頭から被った。
ブランケットの綿の隙間から、リビングのライトの光が細く漏れて、ショートパンツからはみ出た膝を照らしている。
もうこのまま部屋に逃げ帰ってしまおうかと思った時、隣にいた怜が、ふはっと笑った音が聞こえた。
そうしてそのままブランケット越しに頭に手が置かれた。
薄手の綿素材越しに、温かい感触がして、それがぐりぐりと荒く動いた。
「うー……ごめん…」
「ふっ、もう遅いもんな。おやすみ」
怜がくつくつと楽しそうに笑いを堪える音がして、ソファのぎしりという音と共に気配が遠ざかっていった。
ドアがカチャンと軽い音がして閉じて、洗面所のドアを開ける音が聞こえて、楓がブランケットから顔を出した。
リビングの時計はもう二時を指していて、楓は無言でブランケットを畳むとソファにかけて、早足でリビングを出て自分の部屋に向かった。
明日は自分も休みで、きっと怜ちゃんも疲れているだろうから、朝はゆっくりにしよう。
遅めのブランチをしてもいいかもしれない、ああ、怜の好きな明太フランスを仕込んでもいいかもしれない。朝イチで仕込めば、ランチの時間には焼ける。
そう思って、冷蔵庫の中が空っぽだったことを思い出して、少しだけ口元が緩むのを感じながら布団に潜った。
薄い壁の先から、微かに怜が風呂に入る水音が聞こえて、楓はゆっくりと目を閉じた。
目を覚ますといつもより部屋が明るくて、手元のスマホを見ると、九時に差し掛かるところだった。
ゆっくりと身体を起こして部屋から出ると、リビングから音がして、扉を開けると怜がキッチンにいた。
「…おはよ」
「はよ。冷蔵庫なんもないじゃん。楓なに食ってたの?」
「……怜ちゃんがいなかったから、あんまり作る気しなくて、適当に…」
楓の言葉を聞いた怜が口元をふと押さえて、顔を逸らしながら「ふうん」と言った。
「昨日遅かったのに、早起きだね…」
「早起きって言ってももう九時だけどな。ここ一週間、毎日朝早く起きてたからなー、目が覚めた」
怜がそう言って、コップに注いだお茶を飲み干した。
ごくりと動く喉仏をじっと見つめていた楓が、我に返ってリビングを出ようとすると、背後から「楓」と名前を呼ばれた。
まだ顔も洗っていないのに、と今更そんなことが気になりながらも怜の方を振り返ると、怜が優しくこちらを見ていた。
「なに…?」
「…今日は、何も予定ないの?」
口角がきゅっと上がった怜の髪の毛は中央の分け目に沿って寝癖がついたままだったのに、なぜかそれを可愛いと思った。
「ないけど…」
「出かけよっか?楓が暇なら」
掠れた声で、「どこに」と咄嗟に聞いていた。
怜は何気ない調子で「うーん」と考えながら、コップを洗い、水切りかごに伏せた。
そのまま楓の方に歩いてきて、昨日と同じようにぽん、と頭に手を乗せて、楓の隣をするりと抜けていった。
「楓が行きたいとこ」
「でも、怜ちゃん、疲れてるんじゃ…」
そのままリビングを出て廊下をぺたりと音を立てながら歩く怜が、楓の方をくるりと振り返って笑った。
「俺は昨日もう、回復したから」
どこか吹っ切れたように、楽しそうに怜が笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が痛くなるくらい、きゅ、と音を立てた。
そうして楓の返事を待たないまま、洗面所に消えていって、水音がすぐに聞こえた。
好きだと、花火の日にも抱きしめられたのに。
あれが初めてじゃなかったのに。
劇的な、何かがあったわけでもないのに。
なのに、怜ちゃんの笑顔が、声が、寝癖が、全部、ずっと、頭から離れない。
「……もー…」
なんか、昨日から、今までにないくらい怜ちゃんを意識しているかもしれない。
背後のリビングからは、怜が窓を開けたらしく、開いた窓から入ってきた秋の風が、廊下のフローリングを滑って楓の足元を通り抜けていく。
「私が先に洗面所、使いたかったのに…」
そんな何でもない言葉が、口から漏れて、楓はその場にしゃがみ込んだ。
前と同じなのに、全然違う。
怜ちゃんの声も、温度も、匂いも、全部が、今日はとても、近い。
なんでだ、これは、なんだ。
顔にふわりとかかった髪の毛が、昨日とは違ってどこまでもくすぐったかった。



