鍵を開けても、家は真っ暗だった。
まだ帰っていないことくらい分かってはいたが、少しの期待と共に帰宅した楓は、ため息をついた。
冷蔵庫はこの一週間で驚くほど殺風景になっていて、いつもなら複数あるタッパーも鍋も置かれていない。
楓は、怜がいつかクライアントからもらってきたというゼリーを奥から引っ張り出して、夕飯はそれで済ませた。
昨日の深夜、寝る前に怜に送った画像はすぐに既読がついて、慌てて追加で送った文章は、ただのお菓子の紹介文になってしまった。
返信が来なかったらどうしようと思いながら、スマホをベッドの脇に追いやって寝た。朝起きると【美味そう】とだけ返信が来ていた。
それにホッとして、【気をつけて帰ってきてね】と朝に送ったものの、既読はまだついていない。
「忙しいよね…」
三浦が先日、「昔、半年間の出張に行っていた頃、忙しくて連絡ができなさすぎて彼女にフラれた」とこぼしていたのを思い出して、楓はお湯を沸かした。
一人の時はシャワーで済ませていたが、帰ってきたら湯船に浸かりたいだろう。
いつ帰ってきてもいいように、温度が下がらないようにしておこう。
カチャン、と微かな音が聞こえて、薄目を開けた。
リビングのソファでいつの間にか眠っていた楓が時計を見ると、深夜一時を回っていた。
「…楓?」
リビングの扉がゆっくりと開いた音がして、怜の声が聞こえた。
楓が目をこすりながら身体を起こすと、スーツ姿の怜がこちらを見ていた。
「おかえり…」
「…ただいま。寝てたの?」
「うん…寝ちゃってた…」
怜がソファに手を置いて、ブランケットを楓の膝にそっとかけた。
「おつかれさま」と返すと、「ありがとう」と怜が静かに言った。
「待っててくれたの?さすがに遅くなったし、寝てると思ってた」
「ん…ううん…」
ふぁあ、と欠伸を漏らした楓を見て、怜はふっと笑った。
少しだけソファに置かれた怜の手のひらがぴくりと動いたのがたまたま視界に入った。
きっと今までなら、その手で頭を撫でられていただろうと、何となく分かった。
「部屋行って、ゆっくり寝な」
「待って、あの、話したくて…」
怜がそう言って背を向けたので、楓は咄嗟にそう言った。
「あ、でも、疲れてるよね、ごめん遅くに、あの、明日でも、全然」
「いや俺は…楓が眠いんじゃないかなと思って。いいよ、話す?」
怜はスーツのジャケットだけを脱いで、ソファの背もたれにかけた。
白いワイシャツを捲りながら、楓と少し間を空けて、ゆっくりと座った。
「疲れてるのに…いいの?あの…お風呂、あったかくしてあるよ、すぐに浸かれるように」
「ふっ、俺も話したかったしいいよ。風呂もありがとな」
怜はなんだかにこやかで、先週の頭を冷やしたいと言っていた怜とは別人みたいに感じた。
楓が覗き込むようにして見つめると、「ん?」と首を傾けた怜と目が合った。
「あのね…私ね」
楓はゆっくりと、怜に話した。
自分だけが妹だと思っていたように感じて、それが寂しかったこと。
ずっと同じ場所で、同じものを見ていたと思っていたのに、怜はそうではなかったことが、置いていかれていたように感じて、切なかったこと。
怖いと言ったのは、怜のことではなくて、自分の気持ちだということ。
怜は時折「うん」と優しい声で相槌を打ちながら、聞いてくれた。
楓が話終わると、しばらく考えていた様子の怜が、ゆっくりと口を開いた。
「俺はさ…、楓を妹として大切にしたい、守りたいって気持ちは今も全然あって、それはずっと前から、変わんないんだよね」
窓の外に映る夜は静かで、たまに遠くを走る車のタイヤ音だけが、微かに耳に届く。
楓はその言葉に、「うん」と頷いた。
「でもどうしても、女の子としても、好きだって思うんだよ」
「……うん」
怜は楓の方を見ずに、ぼんやりと目の前のテレビの、真っ暗な画面を見ながら話す。
「俺も最初は考えちゃいけない、って思ってたから…きっかけがあったわけでもなくてさ」
「うん…」
「だから、いつから妹じゃなかったかっていうと、正確には分かんない」
「…うん」
冷蔵庫の低いモーター音が、静まり返った部屋にやけに響いて、十月下旬の夜気の冷たさが、フローリングからじわじわ上がってくる。
「でも最初に言ったみたいに、妹として大切に思う気持ちも共存してて…だから強引にどうこうする気はなくて。楓が嫌っていうなら、いつでも兄に戻れるつもりでいてさ」
兄に戻るというのは、一緒に住む前のように、ということだろうか。
だから、いつか自分がいなくなるかのような言葉を言っていたのだと、腑に落ちた。
「楓がありのままで、好きなことして楽しそうに、元気に笑ってんのが、兄としても男としても好きだからさ」
「……」
「俺の中ではそこが優先なんだよね。でも最近は、ちょっと攻めすぎてたっていうか…よくなかったなって反省した」
怜が言い終わると、ソファの背もたれに頭をつけたまま、くるりと楓を見た。
「ごめんね」
その口調も、声色も、全てが優しくて、温かくて。
なぜか脳裏に、怜が出張に行った初日の整えられていた冷たい布団が浮かんだ。
怜が無事に戻ってきてくれたことが、柔らかい視線が嬉しくて、また涙が出そうで、唇を噛んだ。
「怜ちゃんのバカ…」
「うんうん、俺がバカだったよ」
誤魔化すための言葉が不意に漏れただけなのに、それすらも優しく受け止められて、堪えていた涙が溢れた。
「う〜っ」
「ごめんな、俺に安心を求めてるの知ってて、止めらんなかった」
もしかしたら、初めての兄妹喧嘩かもしれないな、と涙を拭いながら思った。
手のひらはぐしょりと濡れていて、それを見た怜がワイシャツの裾を伸ばして、楓の頬の涙を拭った。
「今後は、楓が嫌がんない程度に、弁えるよ」
「……いやじゃないもん」
その言葉を言うには少しだけ勇気が必要で、思わず膝を抱えた。
するりと落ちそうになったブランケットを引っ張り上げて、楓は自分の膝に顔を埋めて言った。
「え?」
「…いやとか、思ったことないもん」
怜の視線がじっと注がれているのを感じる。
ぐすんと鼻水を啜る音と、目尻に溜まった涙で視界が少しぼやけていて、それが今はありがたかった。
時計の秒針だけが響く部屋に、自分の心臓が、どくんと音を立てている。
「……じゃあ……ぎゅってしていい?」
怜がしばらく黙った後、静かにそう言った。
「……嫌なら、ちゃんと言っていいから」
ああ、なんかもう、だめかもしんない。
怜の遠慮がちな声が、静かな声が、ゆっくりと、身体にじんわりと広がって、それだけで胸がきゅう、と音を立てる。
「…いやじゃない」
膝に顔を埋めたまま、そう言った。
恥ずかしくて、目をぎゅっと瞑った。
しばらく沈黙があった後、ソファが静かに音を立てた。
ワイシャツがくしゃりと擦れる音がして、怜の気配をすぐ隣に感じた。
まるで、家中の家具も、家電も、息を潜めているみたいだと思った。
怜が無言で、楓の腕を取った。
手首に触れた怜の手が、いつもより少しだけじとりと汗ばんでいた。
優しく手を引かれて、顔をあげると、怜と目が合った。
息が、ひゅうと漏れて、いつの間にか寝跡がついていた自分の髪の毛が、頬を優しく撫でた。
「…かえで」
景色がスローモーションに見えて、真剣な怜の表情だけがどこまでも頭に残って、気づいたら、怜の腕の中にいた。
背中に回った大きな手のひらが、ぎゅうっと力を込めて、楓を閉じ込めるように抱きしめた。
背骨が少しだけ反って、押し付けられるようにして顎が上がって、怜の首元に合った固いワイシャツの襟が顔に当たって、思わず目を瞑った。
温かくて、優しくて、背中を包む手のひらの力は、Tシャツがくしゃりとなるくらいに、強かった。
鼻に当たるワイシャツからは、少しだけ、機械の油みたいな匂いがした。
「……しごと、疲れた?」
楓が静かにそう言った。
同じように背中に回す勇気はなくて、シャツの裾を握りしめた。
「…今、回復した」
ゆっくりと怜がそう言った。
裾を握っていた手を離して、怜の背中をゆっくりと撫でた。
怜の顔が肩に埋められて、胸板の温度が心地よくて、秒針と息だけが音を立てるリビングで、しばらくそうしていた。



