キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
「楓ちゃんって、思ったより顔に出るよね」
「えっ」

レッスンが終わって、楓がテーブルの上を片付けている時だった。
今日のレッスンは、かぼちゃのモンブランタルトと金木犀シロップのパンナコッタだ。二品同時に作れるとあって人気だが、時間配分が難しいものだった。

「焦ってたでしょ、今日のレッスン」
「ああ…そうですね」

怜とのことがバレているのかと一瞬身構えた楓だったが、桃香の言葉にホッとしながら、テーブルの上に落ちているタルト生地のかけらを布巾で集めた。

「焦ってますってなるとお客さんも不安になるから、時間が押してるなーってなったら見本の工程を短縮したりとか、お客さんと同時にやったりしてどこかを削ったほうがいいよ」
「はい…」
「モンブランの絞りは見せたいけど、別にシロップに火通すところなんか口頭でもなんとかなるでしょ?私と一緒にやりましょう!って縮めていかないと」
「そうですよねー…わー、頭いっぱいになっちゃってました」

なんとか時間内には終わらせられたが、試食の時間がいつもより少しだけ短くなってしまった。何度か楓のレッスンを受けている受講者にも、「お疲れ様」と声をかけられたので、焦りも見抜かれていたんだろう。

「ま、でも頑張ってるなーって感じがするから、別にクレームとかにはならないっていうか、なんかこう、可愛いからね楓ちゃんは。愛嬌で得してるっていうか」
「…実力でお客さんに求められたいです」
「んふ、そういうところが本当かわいーい」

自分のテーブルの片付けが終わったらしい桃香がニコッと笑って、テーブルの上のボウルを手に取って、食洗機に入れに行った。

「それでー?皆川さんとお兄さんとは何か進展あった?」
「…皆川さんとは、パン友達に落ち着きました」
「えっ、何それ詳しく、フったってこと?」
「フったっていうか…」

桃香は「ちょっと待って」と楓を静止し、奥のテーブルで計量をしていたパートの女性の腕を引っ張ってやってきた。以前、休憩室で皆川とのデートの話を一緒に聞いていた女性だ。

「聞いて品川《しながわ》さん、楓ちゃん皆川さんのことフったんだって」
「だからフったっていうか、」
「あらーもったいなーい」
「ね、将来有望なのにね、でもそりゃね、お兄さんがいるもんね」

桃香が「ヨイショ」とテーブルの下から丸椅子を取り出して座った。
楓はシンクのゴミを片付けながら文句を言う。

「桃香さんっ、みんなにペラペラ言わないでくださいっ」
「え、みんな知ってるよ。こんな女ばっかりの職場なんだから、すぐ回るよ噂なんか」
「噂は桃香さんが流してるでしょっ」
「だってフレッシュな恋愛が聞きたいんだもーん、うちはもう長いしー」
「ねー、若い子の恋愛からしか得られないものってあるわー」
「品川さんまでっ」

楽しそうに顔を見合わせる二人を見て、楓は唇を噛んだ。
そんな楓を見てケラケラと楽しそうに笑う桃香が、拭いたばかりの机に顔をつけて言った。

「お兄ちゃんとはー?どこまでいってんの?」
「…どこまでもいってないですよ。今は出張で東京にいません」
「え!いつまでー?さみしーい」
「明日の夜遅くには、多分…帰ってくる…と思いますけど…」

尻すぼみに自分の声が小さくなっていったのが自分でも分かり、桃香が首を傾げた。
絞った台拭きに含まれていた水が、シンクにボタボタと音を立てて落ちていく。

「喧嘩でもした?」
「…ちょっと、なんか、まぁ」
「そういう時はあんまり考えずに、いつも通りにメッセ送っときなよ〜」
「いや…そんな…何送っていいか分かんないし…」

品川が二人のやりとりをニコニコしながら聞いている。
娘が二人いるので、きっと母のような目線なのだろう。

「なんでも良くない?まぁ、困ったら自撮りでも送りな?かわいーってなって向こうの怒りも冷めるよ」
「そんなの送れないです!桃香さんいつもそんなことしてるんですか!?」
「うん、喧嘩したなー、話し合い面倒だなーって時はごめんって自撮り送ったら大体いいよって返事くる」
「ふふ、竜くんそうなの?桃香ちゃんにベタ惚れだもんねー」
「そうなんすよー」

桃香の彼氏に話題が移り、楽しそうに話す二人を横目に、楓は排水溝のネットを取り替えに中央にある大きなシンクへと移動した。

なんでも良いのか。
きっと怜からは、何も送ってこないだろう。
私から、何か送っても良いのかもしれない。

そう思いながら、楓は食洗機のスイッチを入れた。
ゴウンゴウン、と大きな音を立てて回り始める業務用の食洗機を、しばらく見つめながら、エプロンのポケットの中で、少しだけ冷たくなったスマートフォンをそっと指先でなぞった。








ホテルに戻ったのは、日付が変わる頃だった。
駅前のビジネスホテルは乾燥した空気で満ちていて、無機質な照明が冷たく感じた。

「……はぁ」

ネクタイを乱暴に緩めて、怜はベッドに倒れ込んだ。
スーツには工場の匂いがうっすら染みついていて、シャツの袖を捲った腕には、資料の紙で切った浅い傷が残っていた。

静かだな、と思いながら天井をぼんやり見つめる。
冷蔵庫のモーター音だけが小さく響いていた。四ヶ月前なら当たり前だった静けさなのに。

天井に埋め込まれているライトを見ていると、今日の会議の内容が嫌でも脳裏に浮かぶ。




————長机の上には開かれた資料と、飲みかけのペットボトルのコーヒーが乱雑に並んでいる。
窓の外はとっくに暗くなっていて、工場の敷地内を照らす白い外灯だけが、一定間隔でコンクリートを照らしていた。

「だから、そこを整理するために、今回SKUを減らしたいんです」
「減らしたら売上落ちるだろ」
「いや、今問題なのはそこではなくて、現場負荷と在庫管理です」
「現場負荷、現場負荷って、現場は昔からこれで回してんだよ!」

テーブルを叩くような声に、空気がぴりついた。
隣にいた若い社員が小さく肩を揺らす。

食品工場特有の少し冷えた空気と、作業着に染みついた油と出汁の匂い。
役員会前の最終調整の空気は地獄のようで、でもこんなことは珍しくはない。

「分かってます。だから現場全部見せて頂いて、その上でのご提案です。今のオペレーションは属人化しすぎているので、このまま少しでも人が抜けると崩れてしまいます」
「……現場、ほんとに全部見たのか」

低い声で、工場長が言って、怜は頷いた。

「ラインも冷蔵も梱包も、夜勤導線も拝見しました。人足りてないですよね。現場の我慢が前提ではいけないと思うんです。でないと、長く働いていただけないのではないですか?」

静まり返った会議室では、遠くでフォークリフトのバック音だけが響いている。
しばらくして工場長が、大きく息を吐いて「……分かったよ」と言った。

役員たちの空気が一気に緩んで、次々と話が進み始めた。
怜はふう、と息を吐いて椅子にもたれたまま、小さく目を閉じた————



明日の役員会に向けて、資料の最終調整をしなければ。
そう思った瞬間、スマホが震えて、何気なく画面を見ると楓からの通知で、勢いよくベッドから起き上がった。

静かな部屋に、スーツとシーツが擦れる音がした。
楓とのトーク画面を開くと、画像が一枚送られてきていた。
無機質な黒いテーブルの中央に、ケーキとゼリーのようなものが置いてある。

「…なにこれ?」

そう呟くと同時に、トーク画面の左側に吹き出しが一つ、無音で更新された。

【今日作った、タルトとパンナコッタ】

怜は眉間を寄せたまま、たったそれだけの短い一文を繰り返し目で追った。
ふはっ、と漏れた息は、静かなシングルルームにすぐに消えていった。


「…自撮り送ってって言ったじゃん、俺……」


なんの加工もされていない、ただのケーキの写真に、なんで俺はこんなに心が動かされているんだろう。
怜は数秒、その画面を見つめたまま動かなかった。

気づいたら深く息を吐いて、ベッドにぼふ、と音を立てて倒れ込んだ。
スマホをベッドに投げ出して、顔を両手で覆って、脳を通らずに声が漏れた。

「あー…もう」

疲れているのに。
明日の役員会の資料、まだ最終の手直しが残っているのに。


「会いてー…」


いい歳した大人が、なにやってんだ。
本当に、情けなくて、おかしくて、どうしようもないな。