怜ちゃんが出張に行って、三日経った。
月曜日、朝起きたら怜の部屋のドアが少しだけ開いていて、そっと覗くと、誰もいなかった。
いつもは起きたままの形で残っている布団が、綺麗に整えられていて、それを目にした瞬間、胸が痛くなった。
もう戻ってこないような気さえして、朝食も食べる気にならなかった。
冷凍庫に入れていた、炊き込みご飯のおにぎりが一つだけ減っているのに気づいて、ほっとした息が溢れた。
仕事が休みの日も、なんだかんだ家にいることが多かったのは、怜が家にいたからだったんだと、ふと気づいた。
昼ごはんを用意して、家事をして、夜ご飯を作って。
怜は休みなんだから無理しなくていいと、外食だってコンビニだっていいんだと言っていたけれど、極力、作りたくて。
苦ではないというのもあったけれど、作って、あげたかったんだということに気づいた。
だって、自分一人だと、何も作る気にならない。
一人での食事がこんなにも味気ないと、知らなかった。
帰宅して、どこも電気がついていない。
洗濯物は、二日に一度回せばいい。
冷蔵庫の野菜室に入れておいた野菜が、端から少しずつしなびていく。
「怜ちゃん…」
できるだけ連絡すると言った。
でも、何も送られてこなかった。
当たり前だと、思った。
「楓さん!」
「あ…皆川さん」
仕事に身が入らなかった。でも何かをしていたくて、無理やり残業して、考えなくてもいいデスクワークをひたすらこなした。
後ろから声をかけられると、リュックを背負った皆川が小走りで隣に並んだ。
「遅いですね?今日は」
「あ、はい…ちょっと溜まってた事務仕事を」
「わぁ、嫌ですよねー。僕も今日は残業しました」
皆川が楓の横顔を覗き込んで、人懐っこい顔で笑った。
少しだけ離れた丸い目が、笑うと綺麗な弧を描いて細くなった。
「この間のお返事、考えてくれました?」
「え?」
「デート。え?ってことは、考えてなかったというか忘れてましたね?」
「あ…」
楓の顔を見て、皆川は口元をふっと緩めた。
一直線に結ばれた唇を見て、怜とは違うなと思った。
「…もう遅いですし、お家まで送っていってもいいですか?歩きながらお話ししません?」
「え、いや、そんな」
「こんな道なりで聞いちゃった僕もよくないですけど、このまますぐ駅で解散も、ちょっとなんかね」
「あ…そっか…じゃあ、すいません…」
皆川の言葉に楓は頷いて、甘えることにした。
ああ、やっぱり自分は視野が狭くて嫌だな。
「……あの時に僕が会ったのは、本当にお兄さん?」
「え?」
楓が皆川の方を見ると、いつもと同じように笑っていた。
ひんやりとした風が、横髪を攫っていった。
「なんか、自分の知ってる兄妹の感じじゃないなーって。僕も妹がいるんですけどね」
「あ…兄です、あの…血は繋がってなくて…似てないですもんね」
「ふふ、そういうんじゃないですけどね。なるほど、血は繋がってないんですね」
いつの間にか駅に着いていたが、通り過ぎて家までの道を歩いた。
そういえば、前もここを、怜と歩いた。
「楓さん、好きな人いるでしょ?」
「えっ」
代官山の街路樹から落ちた細い葉が、タイルの上を乾いた音を立てて滑っていく。
楓は、薄手のカーディガンの袖を無意識に引っ張った。
「だから、僕がこないだ言ったこと、全部忘れていいです」
「えっ?」
「なので、なんか相談に乗れることあったら乗りますよ?」
「いや…え、でも」
楓の動揺を見て、ははっ、と皆川が明るく笑った。
「なんていうか…パン友達ではいて欲しいなぁって思いますけど」
「え、ええ?」
「最初に見た時から、可愛いなー仲良くなれたらいいなーって思ってましたけど、まだ全然、同僚に戻れるので。この歳になると、そんな軽い感じで始まるっていうか。ダメならダメでってなれちゃうっていうか」
夜風が少しだけ冷たくて、歩くたびに楓のスカートの裾がふわりと揺れた。
通り沿いにあるカフェのテラス席にはまだ人が残っていて、オレンジ色の照明がガラス越しにぼんやり漏れていた。
「だから、もうデートとか言わないので。その代わり、その人の話聞かせてください」
「あ…はい…?」
怜に告白されたり、距離が近くなったり、この間のこともあって、皆川のことはすっかり頭から抜けていた。
もし何か言われたら、返事をしなければと思っていた楓からすると、皆川の提案はありがたく、本当に何も気にしていないようだったので、曖昧に頷いた。
「好きなのは、お兄さん?」
皆川の言葉に、少しだけ、息が漏れた。
「な…んで、ですか」
そう言った自分の声は、いつもより上ずっていた。
「だって、僕といるの見られた時の楓さんの顔、すごかったですよ。青ざめちゃって」
「え…私、そんなんでした?」
「そうですよ、やばい!って感じで。元々、脈ないんだろうなーと思ってたので僕は傷つきませんでしたけどっ」
皆川が眉を顰めながら、冗談のように言うその口調が面白くて、楓も思わず笑う。
通りすがりの居酒屋から、肉を焼くこんがりと香ばしい香りが鼻先をくすぐる。
楓の歩幅に合わせてくれる皆川を見上げて、怜をぼんやりと思い出した。
「私の、知ってる恋愛じゃ、なくて…だから、よく分かんなくて…こわくて」
いつも出勤する時に履いているお気に入りのスニーカーが、アスファルトを掠めて鈍い音を立てた。
怖い、なんて感情は、怜に抱いたことなんてなかったのに。
「いいじゃないですか、経験したことない恋なんて」
「え?」
楓の言葉を聞いた皆川が、楽しそうに言った。
街灯とマンションが立ち並んでいて星は見えない空を見上げて伸びをした。
軽いトーンで返された言葉に、楓は思わず皆川の顔を見上げた。
「新しいことを始める時は、いつだって怖いでしょ?僕も、いまだに店長やってて怖いですよー、在庫にいつも怯えてるし」
「…ふ、」
楓が思わず笑みを漏らすと、その顔を見て皆川もふふっと軽い調子で笑った。
後ろから車が通って、皆川がさり気なく楓の肩を引き寄せた。
「怖いのは、なんでですか?単に、踏み出す勇気ってだけ?」
そう聞かれて、考えた。
何が、怖くて、何に、怯えているのか。
「……失う、ことが?」
皆川は「いいじゃないですかー」とのんびりした口調で言った。
中央で分けられた前髪が風で揺れて、額が見え隠れしている。
舗装されたタイルの上を、スニーカーが乾いた音を立てて進んでいく。
「失いたくなくて怖いって、なかなかないですよ」
大通りを外れて、車の音が一気になくなる。
遠ざかっていくエンジン音と、タイヤの音が耳に残って、頬を少しだけ冷たい風が撫でていく。
「ドキドキより先にそれって…なんか、人生賭けてる、って感じがする」
皆川が、そう言って悪戯っぽく笑った。
どこかから、金木犀の匂いがふわりと混ざって、すぐに消えていった。
いつの間にか握りしめていた手のひらが、少しだけ汗ばんでいた。



