「あー……わり、俺、帰るな!ごめん蓮見、仕事の話はまたチャットで」
「…了解」
三浦がしばらく黙ったあと、軽快にそう言った。
怜は三浦の方を見ないようにして返事をした。
「楓ちゃん、今の気持ち全部ちゃんと蓮見に言いな、分かってくれるから」
「…はい…」
三浦がリュックを持って楓の前に立ち、肩に手を当てて、ぼそりと小さな声で言った。
バラエティ番組だけが小さな音で流れ続けているリビングは、静かだった。
「ごめんね、ごちそうさま!また来るね」
「あ、はい、すみませんでした…」
楓に向かってひらひらと軽く手を振って、三浦がリビングを出て行った。
パタン、と小さな音を立ててドアが閉まった。
視線をどこにも動かさない怜が怖くて、楓は怜の元に駆け寄った。
「あの、怜ちゃん…」
「俺のせい?」
「え?」
ぼんやりと床を見つめていた怜が、楓に視線を移した。
感情を隠すみたいに、半分だけ伏せられた瞳が楓をじっと見つめた。
「俺のこと話してたんでしょ?俺のせい?…ごめん」
「な、んで怜ちゃんが、謝るの…」
怜は口角をきゅ、と上げた。
口の端だけが上がって、笑ったようになる、怜のその口元が好きだった。
今は、それがとても怖い。
「泣くくらいだったってことでしょ?俺のせいで、悩ませて、戸惑わせて…無理させてたよな」
「え…」
「本当は楓が今のままを望んでるの、分かってたんだけど…ごめん、俺が、自分のことばっかりで」
言わなければ、怜に、気持ちを言わなければ。
三浦も、分かってくれると言った。
でも、どこから?
妹だと思っていたのは自分だけだったことが、悲しいと言ったら、怜はどうなる?
もう、あの熱を孕んだ視線が注がれることは、ない?
「ごめん、楓が整理できてないのも分かってたんだけど、最近の楓が……かわいくてさ」
「れい、ちゃん」
「ちょっとずつ俺のこと、受け入れてくれてるんじゃないかって、気持ちが…急いじゃって」
楓が気持ちを言葉にする前に、目の前の怜から次々と謝罪の言葉が降ってきて、それを理解していくのに精一杯だ。
「かわいくて、楽しくて、自惚れてた。ごめん」
やめてよ、なんでそんなふうに、笑うの。
そんな顔、見たことないよ。
「謝らないでよ…違う、そんなんじゃなくて、私、ずっと、こわくて」
「俺がでしょ?」
「待って、そうじゃなくて」
怜が口元を緩めて、ふわっと笑った。
怜の目は、さっきからずっと合わないままだ。
「楓の安心を奪ってたのは、分かってたけど…ごめんな、傷つけて」
「傷ついてなんか、」
「傷ついた顔してるよ」
楓の言葉に被せるように怜が言った。
目が合わないことが、こんなにも心がざわざわするなんて思わなかった。
「…ずっと見てきたんだから」
怜はそう言うと、くるりと背を向けて、リビングを出て行こうとした。
手をかけられたドアノブが、がちゃりと音を立てて、楓は咄嗟にその手を取った。
「怜ちゃん」
「ちょっと、頭冷やすね。ごめん」
キッチンからぽたりと水が垂れて、まだ汚れがついたままの皿に落ちていった。
手に握りしめたままの台拭きが、がさりと手の中でごわついた。
「待ってよ…」
怜がいなくなるような気がして、縋るような声が口から溢れた。
先ほどよりも怜の腕を握る手に力が入った。
怜はしばらく黙ったあと、それをゆっくりと外して、「ごめん」と言った。
そっと下された自分の手首が、宙にぶらんと揺れた。
怜から拒否されたのは、きっと、初めてだった。
ああ、また泣きそうだ。
必死に涙を溢さないように、顔を逸らした。
怜はそんな楓の顔をちらりと見たあと、ドアを静かに閉めた。
ぱたん、という軽い音が、怜から拒絶された音に聞こえた。
廊下を歩く音が聞こえて、奥にある怜の部屋のドアが閉まった音がした。
気配が消えて、つけっぱなしだったテレビの音が耳に入ってきた。
手の中に握りしめたままの台拭きをギュッと握りしめて、楓はキッチンに戻った。
誰もいなくなったダイニングテーブルの上では、三浦が飲み干した湯呑みの底に、わずかに残ったほうじ茶の茶葉が乾いて張り付いている。
換気扇の低い振動が足元に伝わり、テレビの画面の中で大袈裟に笑うタレントたちの声が、遮るもののないフローリングを滑って虚しく壁に跳ね返っていた。
シンクにぽたりと落ちたのは、一体どこからか。
一日部屋から出なくても、意外となんとかなるものだ。
楓を避けるのも、思ったよりも平気だった。
液晶画面の白い光だけが照らす自室で、怜はフローリングに広げた黒いスーツケースのナイロン生地を、引き裂くように開いた。
楓のことを考えなくてもいいくらい、仕事が溜まっていたのは幸いだった。
次の日はほとんど楓と会うことなく、過ごした。
朝、起こされることはなくて、でも自然に、いつもの時間に目が覚めた。
リビングに行ったら朝食がいつものように用意されていて、昼は楓が作り置きしてくれていた昨日の炊き込みご飯と豚汁を食べた。
日曜は、楓の仕事はいつも遅くなりがちだから、先に早めの夕食を取って、食べ終わった皿は洗って、水切りカゴに残したままにしておいた。
そうしたら、きっと察してくれると思ったから。
「あー…だる」
楓を避けたって、楓の作った飯を食べて、洗濯してくれた服を着て、仕事に行く。情けなくて、滑稽だ。
出張があって、良かったかもしれない。
聞いた時は、真っ先に楓の顔が浮かんだけれど。
はぁ、とため息をこぼしながら、スーツケースに乱暴に書類を詰め込んだ。
ファイルの中の書類には、沼津の案件の仕様書や組織図が何枚も重ねられ、青いボールペンの細いインクの文字がびっしりと書き込まれている。
最近の俺は、きっと調子に乗っていた。
楓の気持ちがまだ戸惑っていることに気づいているのに、強引に手を繋いだり、近づいたりした。
それでも、止めようと思えない自分が、地獄だ。
だって、もうどうやって、妹としてだけ見ればいいか、分からない。
それなのに少しだけ、楓が俺のことで泣いたという事実に、救われている自分もいた。
ああ、揺れるくらい、涙をこぼすくらい、俺のことを、考えているんだって。
俺のことで、頭をいっぱいにしてくれてるんだって。
「…異常だ」
分かってる、だからこれ以上近づいたら、また泣かせるかもしれない。
ずっと隠れていた兄としての気持ちが、俺の罪悪感を深めていく。
コンビニのケーキを全部少しずつ食べたいと言って笑っていた、あの顔。
泣かせたくない。楽しそうに、大口を開けて笑う、あの笑顔をずっと見ていたい。
そんな気持ちから、始まったのに。



