「楓ちゃん、蓮見と付き合った?」
「えっ」
夕食を終え、怜が「変なこと言うなよ」と念押しをして自室に戻って行った後だった。
残ったら冷凍しておこうと四合にした炊き込みご飯は怜も三浦もおかわりをしてくれて、思ったよりも余らなかった。
三浦の言葉に、楓の手にあった食器がカタリと音を鳴らした。
「空気が違うもん。なんかあったでしょ?」
「…えと…」
「その割には戸惑ってるっていうか…照れてるってだけ?」
食後に出したほうじ茶をゆっくりと啜りながら、三浦がソファからこちらを見た。
怜ちゃんの友達なのだから、話してもいいのだろうか。
「…そう見えますか?」
「うーん、でも付き合いたてならもっと甘いかな?まだ楓ちゃんが距離を測ってる感じ?」
「三浦さんは、怜ちゃんから何か聞いてるんですか…?」
きっと怜の元同僚なのだから、仕事もできるしそういう察しもいいのだろう。
もし怜が相談しているなら、話してもいいのかもしれない。
「ちょっとね。俺はずっとあいつが謎だったけど、楓ちゃんへの態度見てたらすぐ分かった」
「え…」
「付き合った?って聞いてびっくりしないってことは、告白くらいはされた?」
「びっくりしましたよ…」
「でもそんなこと思ってもなかったら、なんで?ってなるでしょ」
受け入れてる感じだったからさ、と言いながら三浦は湯呑みを傾けた。
楓が、「実は…」と直近の話を端折りながら簡潔に伝えると、三浦はふうんと考えながら言った。
「ふうん?何を迷ってんの?楓ちゃんも、蓮見のこと好きなんじゃないの?」
言っても、いいのだろうか。
怜に近づかれると、嬉しいのに逃げたい。
抱きしめられたいのに、怖い。
その手を掴んでしまいたい衝動に駆られては、怖気付く。
この怖さの正体が分からなくて、たまらなくなって、泣きそうになって、それがずっと心の中にあること。
「…こわ、くて……」
「怖い?蓮見が?」
「私が…」
ぼんやりとしたこの気持ちを話したら、怜ちゃんと同じように優秀な三浦さんは、紐解いてくれるだろうか。
そう思って、ぽつりぽつりと言葉をこぼした楓を、三浦はじっとソファから見ていた。
そして全て聞いた後、うーん、と少し唸った後に言った。
「なるほど、楓ちゃんにとって、蓮見は安全基地だったわけだ。絶対に離れなくて、嫌われなくて、受け入れてくれて、甘えられるっていう」
「そう、かも…」
以前『兄って言葉に甘えすぎなんだよ』と、桃香に言われた言葉を思い出す。
「だから、恋愛対象っていうか人生の土台で。それが一気に『兄』から『男』になったのが怖いんじゃない?」
「…」
「だって恋愛って、失う可能性があるもんね」
安心だった世界が、なにかと引き換えに、もう戻れなくなってしまうような感覚が、ずっとあった。
だって、兄なら、永遠だった。
「恋っていうか、そもそもの人生の基盤が組み変わる感じがするんじゃない?生活も日常も安心も全部繋がってるから、感情のサイズがデカいんだよ」
私の知ってる恋愛じゃない。
分かってる、自分が怜を求め始めていることくらい。
でも、それを認めたら、妹ではもういられないから。
今までずっと、怜の前では妹でいられたのに、それがなくなってしまうことが、すごく不安で、怖い。
「で、逃げ場がなくて、もう戻れないっていう感覚が、喪失感に繋がる」
キッチンの棚に無造作に置かれていた北海道土産の紙袋同士が擦れて、カサリと音を立てる。
場を持たせるためにつけられたテレビは音量が小さく、バラエティ番組の笑い声だけが遠くで流れている。
「あとは、自分だけが妹だと思ってたことが、寂しくて悲しいんだ」
三浦の言葉に、息がすう、と喉に入っていった。
どうして、切なくて、逃げたくて、少しだけ悲しいのかと、ずっと疑問だった。
「…っ」
好きだから、優しくしてくれていたの?
私だけが、兄妹だと思ってたの?
なんで怜ちゃんは、そこから踏み越えてくるの?
だって、家族なら、何があっても、そばにいてくれるのに。
もし、怜ちゃんに恋して、終わってしまったら、どうするの?
私の、唯一無二の、居場所。
世界で一番安全で、絶対に壊れない、場所だったのに。
「楓ちゃんは今まで、蓮見との間に、本当に何も恋愛的な感情を感じたことはないの?」
「え…」
「だって、異性じゃん。いくら兄だったからって、血は繋がってないし、あの通り蓮見の態度は甘いでしょ?元彼の態度と、似たもの感じなかったの?」
三浦が、飲み干した湯呑みをテーブルに置いて言った。
握りつぶされたスポンジの隙間から、白く細かい泡が微かな音を立てて弾け、楓の指先を滑ってステンレスのシンクへと音もなく落ちていった。
妹として無邪気に傍にいれば、そうしていれば、怜が世話を焼いてくれた。
だから、私は妹でいないと。
怜ちゃんにそんな目を向けたら、もうそれは妹じゃないから、だから、
「そういう目で見てたんじゃないのは分かるけど、でも、ずっと傍にいたかったわけで。だから一緒に住もうって提案したんじゃない?」
「…っ」
目の奥が、急に熱くなった。
何かが決壊したかのように、じわりと歪んだ視界から涙が溢れた。
なんで、なんで私は泣いているんだ。
頬に流れていったその道を、次々と溢れた涙が伝っては、ゆっくりと、ぽたりぽたりと落ちていく。
「っえ!?ごめん、ちょっと待って、ごめん楓ちゃん!」
「や、大丈夫です…すみません、ごめんなさい」
三浦の声に我に返って、慌てて泡まみれの手のひらを洗い流した。
ソファから慌ててこちらにやってきた三浦を見ないようにして、傍にあった台拭きで咄嗟に顔を覆った。
「どうした?大丈夫?俺ちょっとキツいこと言いすぎた?ごめんね」
「全然、私も、なんで、こんな…」
困ったような声が目の前から聞こえてきて、再びじわりと滲んだ涙を、台拭きの荒い素材で乱暴に目元を擦った。
台拭きからは、さっきまで食卓を拭いていた冷たい水の匂いと、目の粗い綿のザラザラとした繊維の感触がした。
「…そんな悩んでたの?しんどかった?」
「全然、そんな、ことないんですけど…なんでだろ…」
三浦が困ったような顔をして、ポンと楓の頭に手を乗せた。
髪の上に乗せられた三浦の手のひらは、怜のそれよりもずっと薄く、男物の香水の硬質なシトラスの匂いが鼻腔をかすめた。
楓がもう一度「ごめんなさい」と言った。
その瞬間、カチャリとリビングのドアノブが冷たい金属音を立てて回った。
ドアが開いて、怜がリビングに入ってきた。
瞬時に頭から離れていった三浦の手を微かに目で追って、怜の方を見た。
目があった怜は、ドアノブに手をかけたままこちらを見ていた。
「…なにしてんの?」
「えーと、うーん」
三浦が困った声を出しながらスッと楓から離れて、ソファにそそくさと戻って行った。
怜は無表情でそれを目で追って、楓を見た。
「…楓、泣いた?」
思わず手元の台拭きを背後に隠した。
「あの、ごめん、怜ちゃん」
「…なに、ごめんって」
怜がぽつりと言った。
静かな声だった。
窓の外はすっかり暗く、換気扇の低い音だけが一定に響いている。
甘く止められた蛇口からは、水がシンクに一定の間隔で落ちていった。
背後に隠した台拭きを握りしめる楓の指先に、自分の心臓の早鐘のような振動だけが、冷たい水気を通して伝わっていた。



