まるで、甘美な降伏のようだった。
土曜日、楓は仕事が休みだったが、怜は出張の準備で忙しそうだった。
日帰りで済む予定が一週間に延びたというのだから、それなりに大きな案件なのだろう。
そうして一日部屋に籠っていた怜が、「流石に忙しすぎる」と十七時ごろにリビングに息抜きに来た時だった。
「かえでー」
「どうしたの」
仕事の電話の時とは真逆の、気の抜けたような調子で怜が、キッチンに立っている楓の背後に立った。
まな板の上のれんこんを切るたび、シャクッ、シャクッと乾いた音が鳴る。
その様子をぼうっと眺めていた怜が、楓の肩に顎を乗せるようにして、ふう、と息を吐いた。
「…また、近くしてるでしょ…」
「バレた?ちょっと充電させて」
「充電って、なに…危ないんですけど…」
怜はふっと笑って、キッチンの台に両手をついた。
楓の身体を閉じ込めるように密着されて、抱きしめられているような感覚に陥る。
「めっちゃいい匂いする、今日は何?」
「鮭ときのこの炊き込みご飯、豚汁、れんこんとひじきの和風サラダ、だし巻き卵、肉じゃが」
「すっごい豪華じゃん?どうしたの」
怜が話すたびに肩の骨に振動が伝わって、吐息が首にかかる。
豚汁の鍋からは、ぐつぐつという低い音が絶えず響いている。
鍋の中には大根、人参、ごぼう、こんにゃくがごろごろ入っていて、味噌の匂いが部屋全体をゆっくり包んでいく。
「出張ってなったら忙しいだろうし、ご飯もちゃんと食べられないかもだから…なんか栄養ある感じにしようかなって」
楓がそう言うと、しばらく黙って楓の手元を見ていた怜がぽつりと言った。
「……かわいいこと言ってる自覚ある?」
「えっ」
先日のことが一気に脳裏に蘇り、鍋に入れようと手に持っていたれんこんがつるりと滑った。
楓は焦ってそれを手のひらに乗せて、薄切りにしたれんこんを沸騰させていた小鍋に入れた。
ひじきは艶っぽく黒くて、油揚げと一緒に和えたボウルからは、少しだけ甘い匂いがする。
「な、なんでそれが可愛いことになるの」
「無意識?怖いなー楓は」
「怜ちゃん、集中できないっ」
ふっと笑って楓から離れた怜が、少し離れたところからぼうっと楓を見た。
楓は熱い頬を誤魔化すかのようにコンロの前に移動した。
「…ねぇ、楓、最近さ、」
怜が何か言いかけた時、リビングにピンポーンとインターホンの音が響いた。
動こうとした怜を追い抜いて、楓がモニターのボタンを押すと、こちらに向かって手を振る三浦が映った。
『楓ちゃーん、ご飯食べさせてー!』
「あ、はーい!」
「…は?」
陽気な三浦の声が音割れしながらリビングに響き、しばらくしてから腕を組んでいた怜が楓を見ながら驚いた声を出した。
「なに?は?三浦?なんで?なんで通した?」
「ご飯食べに行きたいって、連絡来てたから」
「は?いつの間に連絡先交換してんの?てかなに?だからちょっと量多かったの?全部俺のじゃないの?」
「出張で北海道にずっといて、コンビニ弁当はもう嫌なんだって」
「知ってるけど、だからってなんで楓のご飯になる?てかいつ連絡先交換したの?」
「こないだお家に来た時だよー」
怜が楓に詰め寄ったが、楓はその腕の下をひらりと潜って逃げた。
れんこんサラダは、さっと湯通ししたからひじきと混ぜたら完成で、ご飯も炊き上がっているはずだ。
肉じゃがは少し前に完成したから味も染みている頃だし、あとは卵を焼けば完成だ。
キッチンに戻った楓が振り返ると、恨めしそうな顔をした怜と目が合った。
献立自体は、怜ちゃんのために考えたんだもん。そう思ったが、三浦が来た時に頬が熱い状態は嫌だなと思い、言わなかった。
「ヤッホー楓ちゃん」
「帰って」
「二ヶ月の出張大変でしたね、お疲れ様でした」
「楓、労わなくていい。帰って」
「ありがとうー!これお土産!バターサンドでしょ、定番のクッキー、とうきびチョコ、向こうでおすすめされたショップの焼き菓子詰め合わせと、料理に使えるかなって、だし昆布!」
「は?楓にだけこんな大量なの何で?てか帰って」
「わー嬉しい!!なんですかこの焼き菓子!可愛いー!!」
「でしょー!楓ちゃん好きかなと思って!二回もタダ飯頂いちゃったし、たくさん買ってきた!」
食卓の端には、北海道の有名店のロゴが入った白い紙袋がいくつも重ねられ、その隙間から乾燥しただし昆布の分厚い茶褐色が覗いている。
自分を無視して行われる会話に、じとりとした視線を向けた怜が、ため息をついてソファに座った。
三浦は何も気にしていないかのようにお土産を楓に渡すと、「相変わらず落ち着く家だなー」と言いながらソファの離れたところにどさりと座った。
「もうすぐご飯できますからね」
「ありがとう、手作りに飢えてたから楓ちゃんに連絡してマジ良かった」
「定食屋とか行けよ、楓に連絡すんな」
「お土産渡したかったし」
「俺この後ミーティングなんだよ、食ったら帰って」
二人の会話がリビングから聞こえてきて、ミーティングだったんだと楓は知る。
土曜日なのに大変だなと思って、手早く卵をといた。
さっき、何を言いかけたのかな。
チャイムが鳴る前に怜が言いかけていたことが気になって、でもまたあの雰囲気を蒸し返すかもしれないと思うと恥ずかしくて、じゅわりとフライパンに広がる卵液を見ながら、先ほどの怜の言葉を反芻した。
「…美味そうすぎるし豪華すぎねぇ?」
「怜ちゃん、明後日から一週間出張っていうから、張り切りました」
「え、そなの?めずらし」
三浦が目をキラキラさせながら食卓について、怜を見た。
怜は少し眉を寄せながらだし巻き卵を口に運んでいる。よっぽど三浦を勝手に呼ばれたのが嫌だったらしい。
「製造担当の常務と工場長が猛反発して、チェンジマネジメントと金曜に最終役員会」
「あー、面倒なやつだな。てか待って、美味すぎて沁みる…」
「良かったです、おかわりもありますからね」
「はぁあ、俺も同棲したい…」
「俺もってなんだ」
「出張帰りに美味しいご飯で出迎えられたい…」
「いつでも来ていいですよ?」
「楓」
楓は同棲、という言葉に反応しないようにしながらご飯茶碗を持ち上げた。
炊き込まれた舞茸がくたりと柔らかくなっていて、鮭の橙色が白い米の間にほぐれて混ざっている。
「都内でこの定食を頼んだら三千円はする。蓮見が死ぬ気で毎回帰ってんのが分かる」
「余計なこと言うな」
「…やっぱり、本当は帰ってくるの大変なんですか?」
楓の言葉に、目を閉じて豚汁を味わっていた三浦が勢いよく頷いた。
「ホテルも経費だし、クタクタだから俺は帰って早く寝たい。次の日もゆっくりでいいし。でも蓮見は終電になろうと帰って、次の日早く起きてるでしょ。新幹線が間に合わなかったら在来線とタクシーでも帰るじゃん、こいつ」
「…そうなの?」
怜は気まずそうな顔をしながら「肉じゃがおかわりある?」と楓に言った。
照れたのかな、と思いながら「お鍋にあるよ」と言うと、怜が立ち上がってキッチンに行った。まだ少し皿には残っていたので、きっとこの場から逃げたかったのだろう。
「寂しいね?一週間」
それを目で追った三浦が、楓の顔を覗き込むようにして言った。
「…寂しいです。でも、できるだけ連絡くれるって」
「楓」
「…ふうん?」
あの後、玄関にぺたりと座り込んだ楓を引っ張り上げた怜が、「出張中、できるだけ連絡するから」と耳元で言った。
「うん」と嬉しさが堪えきれずに声に溢れた。
怜はくしゃりと笑いながら「自撮りとか送ってよ」と言って、「嫌だよ」と言う楓の手を引いて、リビングに向かった。
家の中で手を繋いで歩いたのは初めてで、それがとても恥ずかしかった。
それを思い出して口元が緩みそうになって、ふとキッチンにいる怜を見つめると、目が合った。
蛍光灯の下、肉じゃがの鍋の方を向いたまま、じっと楓を見つめていた。
それもなんだか恥ずかしくて、すぐに目を逸らした。



