キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
 
「あ、楓、ちょっと仕事の電話」
「うん」

出社していた怜と帰りの時間が合い、駅近くのスーパーに一緒に来ていた。
ショッピングカートを引いていた怜がそう言って、電話に出た。

「はい………はい、月曜ですね。現地入りして、そのまま工場と店舗回ります。……いえ、僕は最終で戻る予定です。火曜も午前だけなら東京で……」

別に聞こうとしていたわけじゃないのに、低い声が自然と耳に入ってくる。楓はぼんやりとその声を聞いていた。
仕事の時の怜ちゃんの声だ、と思う。少し低くて、トーンがキリッとしている。


そういえば、今まであんまり怜の仕事のことについて、詳しく聞いたことがない。
楓は手に取ったブロッコリーを棚にあるものと見比べながら思った。

「あーなるほど、役員の方も来られるんですね……現場も追加で…いや……それなら確かに厳しいか……承知しました。じゃあ一旦、しばらく現地残ります…………ええ、ホテルはこちらで取るので大丈夫です」

近くを歩いたまま、棚をなんとなく見つめたまま話す怜の言葉が耳に入り、楓はちらりと視線を向けた。

ホテル?泊まり?出張?
そういえば、前の会社は出張がすごく多くて、数ヶ月単位で現地に滞在しなければいけないんだと溢していた気がする。
まだ家族で一緒に住んでいた頃、平日は現地のホテルに泊まり、金曜の夜遅くに帰ってくる怜を、何度も見かけていた。

「はい………大丈夫です」

前に三浦が家に来た時に、「明後日から北海道だよー」と怜にこぼしていたのを思い出す。
一緒に住むようになってからはあまり出張で泊まりになったことはなかったのだが、また出張が入ったのだろうか。

「はい、はい、失礼します。よろしくお願いいたします」
「…出張?泊まるの?」

怜が電話を切ったタイミングで、楓は無意識に聞いていた。
棚から牛乳を取った楓を見て、怜が手を差し出した。楓が牛乳パックを渡すと、スマホをしまった怜がそれをカゴに入れた。

「そう、日帰りの予定だったんだけどなー…前も行った、沼津の食品会社だよ」
「ああ、お土産に出汁買ってきてくれたところ?」
「そうそう、そこが、急遽泊まりになった」

冷凍食品のコーナーから漏れてくる白い冷気が、薄手のカーディガン越しに腕に届いた。

「どれくらい行くの?」
「一週間。来週の月曜からで、金曜の夜遅くには帰ってくる」
「…そんな長いの?なんで?」

怜が出張なら、あまり食材を買わなくてもいいかもしれない。
そう思って、棚から取ろうとしていたヨーグルトに伸ばした手を引っ込めた。

「今ブランド整理とかEC周りに入ってんだけど、現地見た方が早そうなのと、役員会が入ったから」
「…ふうん?」

そうだ、昔も怜に仕事のことを聞いたことは何度もあったが、IT系の用語が楓にはよく分からないのと、仕事内容がなんか難しそうというイメージが強くて、聞いてもよく分からないかもしれない、と聞かなくなった。

怜も自分から話すことはなく、淡々と仕事をしているように見えていた。でも三浦と話している様子を聞いていると大変なんだろうと、一緒に住むようになって知った。

「最近はなんとか日帰りにしてたんだけどなー」
「前の会社が出張まみれだったのは知ってるけど、今の会社は出張とかないと思ってた」
「いや、全然あるよ。楓と一緒に住む前は、帰るのが面倒でホテル取ってたことも多かったし」

在宅な日が多い怜だったが、たまに遅く帰ってくることもある。
でもそんな日は月に数回で、最近はあまりなかった気がする。

「そうなの?なんで?最近は夜遅くなることも少ないよね?」

レジを通り、怜が財布からカードを出して会計を済ませてくれる。
楓がバッグからエコバッグを出していると、怜が会計済のカゴを持ってくれた。

「まぁそこは裁量次第っていうか…オンラインに切り替えたり、若手だけ残すこともできるし…朝早めて対応して資料だけ帰ってから作ったり」
「ああ、たまに朝早く出ていくもんね。それは怜ちゃんが決めてたんだ」
「うん」

サッカー台でエコバッグに野菜を詰めながらそう言って、ふと思う。

なんで、わざわざ帰ってきてたの?
朝早く、出てまで?
早起き、苦手なくせに?

でもそれを口にするのは、烏滸がましいような、自惚れているような気がして、言えなかった。


「……楓が考えてること、多分あってるけど」
「えっ」

手に持ったままのキャベツをじっと見つめていた楓の横顔を覗きながら、怜がぽそりと言った。


「楓のいる家に、帰りたかったから。だから出来るだけ泊まんないようにしてた」
「…そ、う、なんだ」

台の奥は壁で、後ろからはレジの無機質なピッという音と、決済音と、ビニール袋ががさりと揺れる、喧騒。
後ろで行き交う見知らぬ買い物客の足音や、カートの車輪がタイルを擦るゴロゴロという低い音が、遠くのノイズのように鼓膜の表面を通り抜けていく。

視界の端に映る怜の瞳が、じっと熱を持っている。

手に持ったままのキャベツを強引にバッグに突っ込み、後回しにしていた軽いパッケージも上にごそりとまとめて入れた。
空になったカゴに手をかけると、怜が無言でそれとエコバッグを持ってくれた。


「楓のご飯が食いたいし、ちょっとでも顔が見たかった」
「わ、わかったよ」


急激に、思い出す。
深夜に帰ってきて、こっそりとシャワーに向かう、廊下の足音。
朝起きたらソファで寝てた怜を起こしたこともある。
夜遅く帰ってきたと思ったら、冷蔵庫に残っているご飯だけはちゃんと食べて、朝早くまた出てった日。

あれは全部、私の、ためだったってこと?


「楓のためっていうか、俺のためだけど」


楓の心の中を見透かしたかのように、怜が言った。
今の気持ちすらも伝わってしまいそうで、楓は何も返事をしなかった。


スーパーを出ると、涼しい風が髪の毛を巻き上げていった。
段々と冷えていく気温に、あの花火の日の海風を重ねるのは、何度目か。