キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
  
「今日は何作ってんの?」
「…し、仕事は?」
「休憩しにきたの、いい匂いしたから」

楓がプラスチックのボウルを洗っていると、怜がリビングにやってきて、声をかけた。不意に現れた怜に、思わず声が上擦ってしまった。

「…りんごとほうじ茶のパウンドケーキ。焼けるまであと十五分くらいはかかるよ」
「ふうん、また美味そうな組み合わせ」

そう言って怜が、シンクに立つ楓の背後に立った。
バターが残るボウルを持つ楓の手は泡だらけで、背後から覗かれる視線と、首筋に感じる吐息がくすぐったい。

「…あの、近くない?」

そういえば、前もこんなことがあったなと思い出していると、怜はふっと笑った。

「うん、近くしてるから」
「…またさ、そうやって、ずるいことして…」
「うん、ごめんね」

怜がそう言って、楓の髪の毛をふわりと触った。
後ろの棚にあるオーブンからは卵とバターの焼けるこんがりとした香りが漂い、バニラの甘さが鼻先をくすぐる。
怜は、楓の髪の毛の、さっきまで結んでいた跡がついている部分に指を滑らせて、くん、と鼻を近づけた。

「ちょっ、今、嗅いで…っ」
「俺と同じシャンプー使ってて、なんでこんないい匂いすんの?」
「知らなっ、恥ずかしいからやめてよ…っ」

楓が身体を捩って後ろを向くと、背後にあった怜の顔が思ったよりも近くて息が止まる。
この距離で視線が合ったことなんて、今まであっただろうか。

吸い込まれるように怜の瞳を見つめて、まつ毛が思ったより長いことに気づく。
少しだけかさりとした唇に目がいって、薄い色の皮に細かい縦線が入っているのをぼんやりと見つめていると、怜がぼそりと言った。


「…逃げないの?さっきより、近いけど」
「っ」

楓がはっとして顔を逸らすと、怜が楓の耳元に唇を近づけた。
逃げようとは、もう思わない。恥ずかしくて、感情が込み上げていて、なんだか泣きそうなのに、もっと近づいてくる怜ちゃんの熱を、肌が、鼓膜が、じっとりと欲しがっている。


「かわいい」
「なっ」


温かい吐息と共にこもった声が鼓膜に響き、思わず肩が縮こまる。
怜は満足げに笑って楓から離れ、低い音を立てて稼働しているオーブンを覗き込んだ。
熱風が吹き抜けるたびに、パウンドケーキの型を覆うクッキングシートの端が小刻みに揺れていた。

「焼けたらすぐ食べれる?」
「…食べれないよ、粗熱とってからだよ」
「えー」

怜が残念そうにそう言った言葉からは、もう甘さは消えていた。
いつの間にかそんな変化まで敏感に感じ取るようになってしまった自分に気づいて、胸がじくりと熱くなる。



バニラの香りが先ほどよりも強くなったのは、気のせいだろうか。










「怜ちゃん?」

気分転換だとリビングにノートパソコンを持ってきて仕事をしていた怜が、気づくとソファに横たわっていた。楓は夕飯の準備をしながら、そっと様子を窺っていた。

焼き上がったパウンドケーキが冷めたので、ケーキナイフで端を切り分けた。
しっとりした食感にするために、残りはラップに包んで冷蔵庫に入れておく予定だ。

楓が切り分けたケーキを皿に乗せてソファに持っていくと、怜がすうすうと軽い寝息を立てていた。

白い磁器の皿に載せられたケーキからは、切り口からほうじ茶の香ばしい匂いがかすかに広がっている。
怜の胸元はスウェット越しに規則正しく上下しており、彼の腕はソファのクッションの窪みに無造作に預けられていた。

「…寝てる?仕事はいいの?」
「……んー」

皿をテーブルに置くと、カタ、と静かな音がリビングに響いた。
床に膝をついた楓が、怜を覗き込んだ途端、勢いよく伸びてきた腕に身体を引っ張られた。


「えっ」
「…無防備だね」



怜が楓の身体を引き寄せて、掴まれた腕は熱くて、見開いた目の先には、先ほどと同じような距離に怜がいた。
薄く目を開けたままの怜が、楓の表情を見て、ふっと笑みを漏らした。

「だめだよ?気をつけてないと」
「れい、」
「俺が、楓のことどう思ってるか、言ったでしょ?」

ソファに引き寄せられたことも、髪の匂いを嗅がれたことも、身体が近かったことも、されたことがある。
あの時は、こんなに顔が熱くならなかった。
こんなに、怜ちゃんの表情まで気にならなかった。


いつの間にか、怜の視線を、その手を、熱を、その瞳が、
こちらに向くのを待っている気がする。


「…そこまで、ばかじゃないもん」


自分が何を言っているのか、あまり分かっていなかった。
けれど浮かんだ言葉は、きっと、あの日の怜と同じだと、ぼんやりと思った。

楓の口から滑り落ちた言葉を聞いて、怜は少しだけ目を見開いた。
そしてしばらく黙って、言った。

「…俺、しつこいよ?いいの?」

窓から入ってきた涼しい風が、パウンドケーキの香りをソファに運んできた。
ほうじ茶のパウダーをたっぷり入れたはずなのに、鼻に届くのは甘い香りだけで、ああ、もっと、苦くすればよかった。


怜が今までも自分を女として見ていたと、過去の思い出もそうだったかと感じた時。
あの時、私は少しの恐怖を感じたはずなのに、

それと同時に感じたのは、

幸福。


「…そんなこと、知ってる」


こんなに難しくて、複雑な気持ちになるものだったっけ。
掴まれたままの手首が熱い。自分が熱いのか、怜が熱いのかもう分からない。

吐息が怜にかかるのは恥ずかしくて、思わず息を堪えてしまう。
それでも漏れていく吐息が、怜の着ているTシャツに優しくかかる。

怜が楓の頬をさらりと撫でた。
抱きしめられるかのように距離が近くなって、身体が密着したのは花火の時ぶりで、でもあの時ほど戸惑っていない。

部屋の中はただ時計の針が進む音だけが平坦に響いている。

「…かわいい」
「……やめてよ…」

私は、まだ怖いのだ。
怜に触れられると、気持ちが込み上げてきて、たまらなくなって、涙が出そうになる。この感情の正体がずっと分からない。

怜ちゃんが嫌いなわけじゃない。
怜ちゃんを失いたいわけでもない。

もっと近づいてみたいという衝動に駆られているのに、それが怖いと思う。
あの時と同じ熱を求めているのに、怖いと思う。

それが何か分からないうちは、あと一歩が踏み出せない。


怜が目を細めて、楓の髪の毛をさらりと撫でた。
その手つきが優しいだけではなくて、その瞳がどんな感情を孕んでいるかは、もう分かっている。

目線が絡んで、しばらく見つめあっていた。
そうして耐えきれなくなって、同時に視線を逸らした。


きっと、怜ちゃんは見透かしている。


けれど、きっと、
まだお互い、「兄妹」という建前の端っこを掴んでいる。