キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
「楓ちゃん、今さらだけど代官山スタジオへようこそー!」
「ありがとうございますー!」

代官山スタジオの代表、黒川《くろかわ》 健太郎《けんたろう》によって音頭が取られ、それに合わせてグラスが軽やかな音を立てて合わさった。

今日はスタジオ近くの店で、今さらながらの楓の歓迎会だ。
正社員は六人で、あとはパート社員十名ほどで構成されているスタジオだが、今回は正社員全員に加えて三人のパート社員が参加してくれていた。

「遅くなっちゃったねー、なかなか時間とれずごめんね」
「全然、開催していただけるだけで感謝ですっ」
「誰かしら休みでなかなか全員揃わないもんね」
「楓ちゃんはまだまだレッスンが多くて大変だよね」
「いえいえ、私は覚えなきゃいけないことがたくさんありますし!」

スタジオから徒歩五分ほどの店は、通りから少し奥まった場所にあった。
ガラス張りの入口の向こうには、コンクリート打ちっぱなしの壁と、木のカウンター席。昼はカフェ、夜はワイン居酒屋として営業しているらしい。
天井から吊られた小さな電球が、柔らかいオレンジ色の光を落としていた。

テーブルにはすでに前菜が並んでいた。
生ハムと無花果、鯛のカルパッチョ、焼き茄子のマリネ。小さな白い皿に彩りよく盛られている。

「でも楓ちゃん、レッスンの予習めちゃくちゃしてて偉いよ!」

桃香がメニューを見ながら言った。

「いえそんなっ、まだ指名もないし、空き枠出ちゃうことも多くて」

楓がそう言うと、「最初はそんなもんだよー」と、製菓レッスンをメインで担当している三十代の女性講師がグラスを傾けながら言った。

「桃香ちゃんはほんとすぐ埋まるよね、上手なんだよ」
「いやー、あれは喋ってるだけなんですよ、本当に」

健太郎が柔らかく微笑みながら言うと、桃香は肩をすくめてタブレットを操作した。

「健太郎さんの回なんか、ほんと埋まるの一瞬じゃないですか」
「僕は回数少ないからね」
「またまたー」

健太郎は苦笑しながら水のグラスを口に運ぶ。

「楓ちゃんもさ、レッスン中にさ、次これどうですかーって言ってみなよ」
「頑張ります…!」

楓は苦笑いした。
オプションのチョコ追加や、別日のメニュー案内、コースの説明。言おうと思えば言えるのに、タイミングを逃してしまう。

「楓ちゃん、説明丁寧だから逆に遠慮しちゃうんだよね」
「うっ…」
「でも指名つくと一気に変わるよ、頑張ろう」

三十代の女性講師がグラスを軽く揺らしながら言った。
その話を聞いていたパートの女性も頷く。

その言葉に少し肩の力が抜け、目の前のグラスを傾けた。
お酒はたくさん飲むと頭が痛くなってしまうため、久しぶりだった。

薄いオレンジ色のドリンクを口に含むと、砕かれた氷が歯に当たってカリッと音を立て、柑橘の皮特有の微かな苦味が舌の付け根を刺激した。
飲み込んだ直後、喉の奥から食道にかけて、熱い筋が一本通るような感覚が残る。

一杯目を飲んだところで、ふわっと身体が軽くなるような感覚がした。
甘いからとごくごく飲んでしまったが、頬がじんわり熱いのはきっと気のせいではない。

「楓ちゃん、顔赤いよ」
「え、ほんとですか」

桃香が覗き込んで笑う。

「かわいい、もう回ってるじゃん」
「わー久しぶりだから…」

慌てて水のグラスを手に取る。冷たい水が喉を通って、少し落ち着いた。
目の前に置かれた鶏もも肉のコンフィと、焼きとうもろこしのバターソテーを桃子が取り分けてくれた。

運ばれてきたコンフィの皮目は、熱い脂で熱せられて細かく泡立ち、パチパチと小さな音を立てている。湯気と一緒にバターの香りが広がった。

「桃香ちゃんは、つかみが上手なのよ」
「ああ。本日のレッスン講師の高梨桃香、名前にフルーツが二つ入ってますが今日は一切使いません!ってやつですね」

先輩社員の言葉に、桃香がニヤリとして言った。楓も最初に聞いた時、思わず笑ってしまったやつだ。

「僕は最初聞いた時、どこのアイドルが来たかと思ったよ」
「えー可愛いくないですか?」

桃香がビールを煽りながら言った。周りも思わず笑いながら、和やかな雰囲気のまま歓迎会は続いた。

焼きとうもろこしのソテーは美味しく、これからとうもろこしは旬の食材だし、怜ちゃんに作ってあげよう、と思いながら、二杯目をちびちびと飲んだ。








「れいちゃーん」
「はぁ、コンビニの中で待ってろって言ったじゃん」

歓迎会後、居酒屋から家まで歩いて帰れそうな距離だったので、駅に向かわずに他の社員と別れた。
怜にその旨を連絡すると、もう遅いから迎えに行くと言われた。

十分後、コンビニの外で水のペットボトルを持って手を振ると、駆け寄ってきた怜がため息を吐きながら言った。

「え?コンビニじゃん」
「中で、っつったの俺は」
「そんな違わないよー」
「明確な差があるだろ。ほら、帰ろ」

そう言うと踵を返し、楓に背を向けた。
部屋着のままの怜の足元はコンビニなどに行く時用のサンダルで、今日は出社だったのか髪の毛だけ綺麗にセットされていてアンバランスだ。

わざわざ迎えにきてくれたことが嬉しくて、楓は後ろから走って、その広い怜の背中に飛び乗った。怜の背中にしがみつくと、柔軟剤の匂いがする薄い綿のシャツ越しに、浮き出た肩甲骨の硬い感触が胸に当たった。

「わっ」
「おんぶしてー」
「びっくりしたー…地震来たかと思った」
「失礼!そんな重くないでしょ」
「楓、まだ小学生のつもりなの?」

怜は呆れた声を出しながらも、足に手を回して支えてくれる。
初めて会った時は小学六年生だったので、さすがにおんぶなどしてもらうことはなかったのだが、こんなことができてしまうのは、久しぶりにアルコールを入れたからだろう。
ふわふわした気持ちをなんとなく怜にぶつけたくなって、気づいたら身体が動いていた。

「つかれたんだもん」
「酒くさっ」

楓が怜の肩に手を置くと、流れた吐息で伝わったのか怜が言った。
怜が一歩踏み出すたびに、楓の太ももを支える掌に力がこもり、ジーンズの生地が擦れていく。いつもより高い目線から、怜の耳と、その後ろの短い髪が見えた。

「二杯しか飲んでないよ?」
「楓、弱くなかった?そんな飲んでいいの?」
「だって私の歓迎会なんだし…」

楓がそう言うと、怜は少しため息をついた。
怒ったかな?と顔を見たくて、覗き込むように近づけると、怜は眉をしかめて、楓をストンと地面に下ろした。

支えていた腕が離れ、両足が地面に落ちる。アスファルトのざらついた振動が靴底を突き抜け、足首の関節に少しだけ刺激を感じた。
目の前には、セットされた怜の髪の毛が、夜風に揺れているのが見える。息が、少しだけ怜の方に向いていた。

「重い、俺ひ弱だから耐えられない」
「えー!ダサいー!」
「万年デスクワークなめんな、運動から遠ざかって何年だと思ってんだ」
「偉そうに言うことじゃないー!」

怜はそう言いながら、歩幅を楓に合わせてくれていた。
街灯の白っぽい光が、怜の横顔に影を作っている。

眉間から鼻先にかけての真っ直ぐなラインや、短く切り揃えられた睫毛の密度が、至近距離で明瞭に映り込んだ。
遠くの街路樹からは、ジリジリと焦げ付くような蝉の鳴き声が、湿った夜気の中で増幅されて響いている。

顔を近づけた時に、意外と鼻が高いんだ、と思った。
兄妹だからって、さすがに良くなかったかな。

楓はそう思いながら、怜の隣を少し間を空けて歩いた。
夜風が、二人の間を通り抜けた。