「怜ちゃん起きてー!」
楓は朝八時、怜の部屋の扉をノックした。
コンコンと木の音が少し響いては音のない廊下に消えていく。
引っ越し翌日、念の為二日間は休みを申請していた楓だが、怜は今日は仕事と言っていたはずだ。
「入りまーす」
怜の部屋は、楓の部屋より少し大きい。今までも数回入ったことがある。室内はクーラーでキンキンに冷えていて、半袖の腕がぞわりとした。
隅のベッドで布団にくるまるようにして眠っている怜のそばに近寄ると、すうすうと可愛らしい寝息を立てていた。
「怜ちゃん、おはよ」
「…かえで」
怜のそばに近寄って声をかけると、掠れた声で、呻くように名前を呼ばれた。寒くて、無意識に腕を摩っていた。
「起きた?朝ごはん食べよ、一緒に」
「…かってに…はいんなよ…」
目をぎゅっと瞑り、布団を目の下まであげて寝ぼけた声で怜が言った。
いつも見られないその姿が新鮮で、少しだけ可愛い。
「朝、相変わらず弱いねぇ。ほら、起きて」
「なんでおこすの…」
布団をめくろうとすると、その気配を察知したのか、怜が力を込めて阻止した。ぼふ、と布団が擦れる音がしてその中に埋もれる怜を見て、楓は笑いながらベッドの縁に腰掛けた。
「パン、焼いたよ」
「わ…めっちゃいいにおいすんじゃん…」
楓の言葉に布団から顔を出し、開けっぱなしのドアから漂う香りに気づいたのか、怜は少しだけ笑った。リビングから一番離れている怜の部屋だが、廊下から漂ってくる香りが、部屋を少しだけ香ばしくさせている。
「ほら、焼きたてだから食べて」
「ん…おれ、フレックスなんだけど…」
身体を起こした怜の背中を押して洗面所に連れていくと、眠そうな顔で蛇口をひねった。楓もそれをなんとなくそばで見ていた。
「知ってるよ、コンサル会社でフルフレックスなんでしょ?そうだとしても規則正しい生活して損はないじゃん。今日出社って言ってなかった?」
「あー…そうだ、出社だ」
昨日は楓の休みに合わせて休みを取ってくれていたらしいが、今日はやはり仕事なようだ。そのままリビングに向かう怜の後に続いて、楓もキッチンに戻った。
「やば、めっちゃ美味しそう…」
「えへへ」
ダイニングテーブルの上には、ほわりと湯気が立つカンパーニュと、スクランブルエッグとハムとサラダがワンプレートに乗っている。怜は目をこすりながら座った。
「パン焼いてって言ったけど、朝から、しかも昨日の今日で焼いてくれるとは思わなかった」
「オーバーナイトで、夜の間に発酵させておいたんだよ。朝は焼くだけ」
「あー、だからなんか昨日機械がガンガン言ってたのか」
「そうそう、ホームベーカリーね」
楓がコーヒーを持ってくると、怜が「ありがとう」と受け取った。
二人で食卓につき、いただきますと手を合わせた。
縁がカリっと焼けたカンパーニュは、高加水用の粉を使っただけあって、口に入れるとモチモチと弾力を感じる。うん、上手く焼けたようだ。
「怜ちゃん、今日は帰り何時になる?」
「んー…何時でも行けるけど、なんで?」
「なんでって、夜ご飯食べるかなって」
楓がそう言うと、そんな思考は頭に無かったとばかりに目をぱちりとさせた怜が、トマトを口に運びながら言った。
「あーそうか、じゃあ十九時には帰るようにする」
「分かった!食べたいものある?」
「なんでもいいよ、楓が作りたいものを作りな。あ、あとこれ、渡しとくわ」
怜が指についた粉をぺろりと舐めて、リビングの収納棚からカードを取り出して楓に渡した。
シルバーのそれは、怜名義のクレジットカードらしい。
「食費、自由にここから払って。引っ越しで必要なもんがあれば、それも買っていいから」
「え、でも家賃いらないって言ってくれたし、食費くらいは…」
カードを見つめながら言った楓に、怜は鼻を鳴らして少し笑った。
そうしてまた席について、カンパーニュにかぶりついた。
「新卒が何言ってんだよ、俺は家事してくれたりご飯作ってくれるだけで充分助かってるから」
「でも…一部屋もらってるし…」
「今更でしょ。いいんだよ、俺稼いでるから」
もぐもぐとカンパーニュを口いっぱいに入れながら、なんてことのないようにそう言った怜に、楓は思わず笑う。収入をはっきり聞いたことはないが、怜が優秀なことは把握しているので、そりゃそうなんだろうけど、と思う。
「ありがと…」
「うん、変な占い師から変な壺とか買うなよ」
「買わないよ!っていうか変な壺なら、多分クレジット使えないよ!」
「ふ、確かに」
怜がフォークでハムを刺しながら、小さく吹き出すようにして言った。
その顔を見るとなんとなく嬉しいのは、なんでだろう。
思わず楓も笑みが溢れた。
なんだか、私の知っている怜ちゃんよりもずっと大人っぽいかも。
寝起きで頭はボサボサ、部屋着は伸びているのにどうしてそんなことを思ったのかが分からなくて、楓は咄嗟に立ち上がった。
「そうだ、ジャムも買ったんだった!持ってくる」
「え、俺もうパン全部食べちゃったけど」
そう言った怜の声は、聞こえなかった。
冷蔵庫に入れておいたジャムは、「いちじくと胡桃のジャム」と柔らかいフォントで書いてある。それを手に取ると、冷やされた瓶の冷たさが、指先に広がった。
「はい、ジャム」
怜の背後からテーブルにそれを置こうとして、ふと、その髪からシトラスの香りがした。
今朝、準備をしているときに、自分の髪からも香ったものだと分かって、少しだけ動揺した。
「…パン、まだある?」
「あ、あるよ!」
こちらをくるりと振り返った怜の顔を見ないようにして、キッチンに戻った。
なんとなく、耳が熱かった。
パンナイフで、丸く焼いたカンパーニュに刃を入れると、少し冷めて先ほどよりも切りやすかった。
一切れ手に持つと、怜が座ったまま皿をこちらに差し出していた。
スクランブルエッグの卵液が少しだけ染み出しているそこに、なるべく端の方にパンを置いた。
「ありがと。俺、楓のパン好き」
「え、ありがとう…」
「美味い。また、時間あったら焼いて」
「うん!」
怜は、お菓子やパンを作るといつも美味しそうに食べてくれていた。
中学生の怜に、優しく笑って「また作ってよ」と言ってくれた。
もしかしたら気を遣って言ってくれていたのかもしれないその言葉を間に受けて、毎回、会うたびに何かを作って持っていった。
作って良かった。
そう思いながら、コーヒーとパンの香りが入り混じるダイニングに戻った。
ジャムをつけて食べたカンパーニュは、思っていたよりも甘く感じて、楓は急いでコーヒーで流し込んだ。



