怜の予定を無理やり空けさせた二週間後、無事に引っ越しが完了した。
「怜ちゃん、オーブンが届いたまんまなんですけど…」
「だって俺は使わないもん」
「それにしたって、ダンボールくらい開けておいてくれたっていいじゃん!」
「まぁまぁ、今からやるから」
朝イチで頼んでいた引っ越し業者が去っていき、養生シートが取り外された後、楓は部屋を見渡した。
「食器もこんなに持ってきて…入るかな」
「だって、美味しいご飯は見た目からだよ!?怜ちゃん家、真っ白なお皿しかないじゃん」
「だって必要ないし」
物がほとんどなかった怜のリビングに、カラフルなクッションや皿、ぬいぐるみが続々と放り出されていく。怜は気だるげに天井を仰いだ。
無機質だった怜の部屋に、段ボールが開くたび、微かな埃っぽさと柔軟剤の甘い匂いが混じり合う。
楓は段ボールを開封しながら、チラリとその様子を見た。
ちょっと、調子に乗りすぎたかな。嫌だったかな。さすがにぬいぐるみは、うざかったかもしれない。
そう思っていると怜はペンギンのぬいぐるみを手に取って、しばらくそれを見ていた。それから、少しだけ笑った。
昔、ゲームセンターに連れて行ってもらった時に、怜が取ってくれたもの。
楓が欲しいと言ったから、何回も挑戦してくれた記憶を、怜も覚えていてくれたらと思って、荷物に入れた。
「俺が触っていい荷物、どれ?」
「あ…この服って書いてあるやつ、クローゼット入れてくれる?」
「はーい」
明らかに部屋着にしているであろう、少し伸びた白のTシャツとスウェット生地のハーフパンツのまま、怜は段ボールを運んでくれた。
持ち上げられた段ボールの下で、怜の二の腕の筋肉が硬く盛り上がっているのが見えた。楓は目を逸らした。段ボールの隅に、マジックで「本」と書いた自分の字が見えた。
「…ねぇ、下着はさすがに分けておいてくんない?」
「わーー!!」
「こんなラッキースケベ要らないんだけど」
怜は少し間を置いてから、段ボールをこちらによこした。
楓は勢いよくそれに飛びかかり、下着が詰め込まれたケースを回収する。
腕で抱え込むようにして持つと、ため息をついた怜が、隣にあった段ボールを開封しだした。
「ごめん!ほんとに!」
「俺はいいけど。だからどれを触っていいか聞いたのに…」
「ごめんって、勘違いしてたのー!」
「この本ってやつはいいのね?」
「はい、すみません、それは絶対に本です」
カッターをフローリングにカタンと置いて、怜が中身を取り出した。
いくつかの料理本や、お菓子やケーキの本を手に取ると、中身をパラパラとめくった。
楓はその隙に下着類を、違う段ボールに急いで戻した。
「…懐かしい、これ」
「あ、それねー、お母さんがよく作ってくれてたやつ」
「創作料理かと思ってたら、こういう本に載ってたんだ」
怜が見ているページを覗き込みに行くと、豚塊肉を揚げて甘酢で絡めたものが、千切りキャベツの上に乗せられている写真が全面に載っていた。
甘酸っぱいタレが衣に絡んでいて、それをさっぱりとキャベツと一緒に食べるのが美味しくて、楓の好きな料理だった。
「怜ちゃん、遅く帰ってきても、絶対ご飯食べてくれてたもんね」
「そりゃ作ってもらってたら食べるよ。美味かったし」
そういうところが好きなんだよなぁ、と思いながら、怜の隣にしゃがんだ。
ふわりと擦れた怜の服からは、清潔なシャボン玉みたいなさっぱりとした香りがした。
怜は本をパタンと閉じると、すっと立ち上がった。
「私も作れるから、また作るね」
「ふっ、頼むわ」
そして楓を見下ろして「昼にする?」と言った。
先ほど部屋にかけた時計を見ると、短針は十二を指していた。
「あ、ほんとだ。確かにお腹空いたかも」
「楓、何食べたい?」
楓が本を数冊取り出すと、怜がそれを受け取って、実家から持ってきたカラーボックスに入れてくれた。
「えー、何がある?この辺!」
「なんでもあるよ、どこだと思ってんの」
「そうだった、じゃあ生ドーナツ!」
「ご飯じゃないじゃん…」
呆れた顔をした怜に、「だってあれ好きなんだもんー」と言うと、少しだけ笑って「いつでも買えるでしょ」と言った。
そうか、いつでも買えるのか。徒歩五分なのだから、確かに今日でなくてもいい。
今日から、ここで怜と一緒に住むのか。
今さら、ぶわりと感情が込み上げてきた。
小学六年生の頃から、定期的に会ってきた怜。
毎回、会えるのが楽しみだった。
「今日から、怜ちゃんと住むの、なんか変な感じ」
「根回しまでしといて、今更」
「だってそれは、切実だったし…」
「ちょっと待ってて」
怜は静かに笑って、リビングの方に消えていった。スリッパの音が静かなフローリングに少しだけ響いた。
そうして戻ってきた怜の手にはスマホが握られていて、「記念に」と、そのままこちらにカメラを向けてきたので、楓は怜に駆け寄って、そのスマホに手を添えた。
「どうせ撮るなら一緒に撮ろうよ」
「近」
盛れる角度があるんだから、とスマホの位置を指定すると、怜はやや戸惑いながら楓の指示通りの場所にスマホを構えた。インカメで数枚写真を撮ると、怜はすぐにメッセージアプリで楓に写真を送ってきた。
「待ち受けにしようかな」
「こわ、やめて」
「じゃあ私とのトーク背景にして!」
「なんで」
「いいじゃん、記念だから!」
「楓の顔だけでいいじゃん、俺の顔写ってんのやだよ」
「いーいーかーらーはーやーくー」
怜の肩にしがみついて楓が言うと、「分かったから」と苦笑しながら怜が言って、アプリを操作した。振り払われなかった。それがとても嬉しく、口元が緩む。
「ご飯、何食べる?」
「俺が決めていいなら牛丼になるけど」
怜が真顔でそう言った。そういえば大学時代も、牛丼の器がいくつもゴミに入っていた気がする。
「やだっ、なんでオシャレな街に来てチェーン店に行かなきゃいけないの!」
「なめんなよ、牛丼なんか一番タイパもコスパもいいだろうが」
「パン屋さん行こ、行きたいところ沢山あったの!」
それでも楓の言葉に「はいはい」と言ってスマホを仕舞うあたり、やはり怜が自分に甘いのは気のせいではないだろう。
足元の段ボールを早く片付けて掃除してしまいたいが、パン屋でお腹を膨らませてからでも遅くないだろう。
パン屋を探す際に、怜の好きな明太フランスがあるかどうかも一緒にチェックしてしまう。
リビングに向かいながら、足元を見た。怜が用意してくれていたベージュのスリッパは、歩くたびにパタパタと乾いた音を立てて、まだ足に馴染んでいない。
早く片付けて、牛丼よりも美味しいと言わせるご飯を沢山作ってあげたい。
そう思いながら、怜の背中を押してリビングに向かった。



