キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 

「雨だねー…お米は今度にしようか?」
「でも雨雲レーダー見るとあと一時間後には止んでるよ」 
 
次の土曜、たまたまシフトが休みになっていた楓が買い物に行くというと、怜が付き添ってくれた。ありがたく甘えて、スーパーに向かっていると、雨が降ってきたので近くのケーキ屋に入った。

百名店に選ばれていたと知り、いつか行ってみたいと思っていたケーキ屋だった。少々値段が張るので特別な時に買おうと寝かせていたのだが、怜の提案で思い切って入って正解だった。

駅からそう遠くないケーキ屋は、カフェスペースが奥に備わっていて、テイクアウトの客は頻繁に訪れていたものの、イートインの席はまだ空きがあった。

「ほんと?じゃあその後行こっか」
「うん」
「お米、重いよ?いいの怜ちゃん」
「俺をどこまで軟弱だと思ってんだ、二十キロとかじゃなければ持てるよ」

テーブルは大理石で、指先でなぞるとわずかに石の冷たさがある。磨き上げられた表面に、運ばれてきたグラスの底が綺麗に映り込む。
その上にはイートイン限定のパイとミルフィーユが置いてあり、怜はアイスコーヒーを飲みながら笑った。

「なんだっけ、楓が頼んだこれ。美味いな」
「洋梨のコンポートと焼きたてタルト・ア・ラ・ミニュット」
「絶対に覚えられん。LTVとかCVRの方がまだ分かる」
「でた、世界保健機関みたいなやつ」
「全然違う」

眉を寄せながら楓が言うと、怜が鼻で笑った。
「美味しー…」と、目を閉じて味わう楓に、「俺のこれも食っていいよ」と怜が皿を寄越した。

タルトの表面にスプーンを当てると、繊細に重なったパイの層が、パリ、と小気味よく砕ける。その下から冷えた洋梨の果肉と、まだ熱いサクサクの生地。

「いいよ、一口もらったし。太るから」
「別に太ってもいいじゃん」
「いいわけないでしょ」

こちらに怜が皿をよこしてきたミルフィーユは美味しそうで、パイの間に挟まれたいちごは、断面から瑞々しい果汁がじわりと滲み出し、バニラビーンズたっぷりの白いカスタードを薄いピンク色に染めている。

「これ、イートインだからこんなにパリパリなんだよ」
「そうなの?」
「うん、テイクアウト用は崩れたらダメだから、少し固めにするんだよ。これは皿の上で自重を支えるのが精一杯なくらい、脆さを追求してるんだって」

だって、と言っているのは、スタジオの講師が言っていたからだ。
説明を聞くとなるほど、と思うが、今の楓にそこに気付けるような技術はまだない。

「すごいな、お菓子って。…あ、ちょっと三浦から電話きた。仕事のことだと思うから出る」
「うん、どうぞ」

怜がポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。
三浦から個人的に案件を受けて副業している、と前言っていたので、きっとそのことだろう。お休みの日まで仕事して、大変だなぁと思いながら楓はパイにフォークを当てた。

「はい。……大丈夫。……そう、そのまま行かない方がいいと思ってて。うん、論点ズレてるからさ。CVR落ちてるなら、出口いじっても改善しないから」

でた、またよく分からない単語だ。
なんとなく知りたくなって、前に意味を聞いたら「こんなん知ってても役に立たないしインチキ臭くなるから知らなくていいよ」と言われたことを思い出し、口角が上がる。

「そう、あとその案だと理由弱くてそのままだと通らないから、ストーリー足した方がいいかなって思ってのアレだった」

なんとなく手を椅子に置くと、スエード調の生地が少しだけ沈んだ。
落ち着かなくて、怜をちらりと見た。

伏せられた睫毛が作る長い影が、頬の高い位置に落ちている。

怜ちゃんって、やっぱり仕事できるんだよなぁ。
そりゃ、昔から頭も良かったし、前の会社の名前は私でも知ってるくらいのところだったし、当然なのかもしれないけど。

「…うん、そう。まぁ一回提案してみてなところはあるけど。………いいよ、ラフで送って」

なに、こないだから。
なんかいつもだるそうで、家ではくたびれた部屋着とか着て、ブルーライトカットメガネしたままソファで寝て、朝に鼻に変な跡つけてるくせに。

今だって適当なサンダルで、そのハーパン、こないだレシート入れたまま洗濯に出して大変だったやつなんだから。

「……まぁ。…うるせーよ、余計なこと言うな俺に。………来なくていいから。はい、じゃあ、うん、夜また送って。はーい」

怜が電話を切って、ポケットに仕舞った。
その一連の動作をなんとなく目で追っていた楓の視線に気づき、怜が「どうした?」と言った。

「…なんでも」

怜ちゃんって、三浦さんにキツいだけ?
他の女の人には、どんなふうに接するの?

「ごめん、なんの話してたっけ?」
「…なんも。大した話してないよ」
「ふ、なにそれ」

桃香さんが目元に色気があるって言ってたけど、色気のある目元ってなに?
この、だるそうな、たまに半目になってる目元のこと?

「…怜ちゃんって、仕事できて、ずるい」

ぽつりと漏れた言葉に、アイスコーヒーをストローで飲んでいた怜が目線だけを楓に送り、「ずるいってなんだよ」と言った。

「ずるい。ゴーヤ食べられないくせにっ」
「ふっ、意味わかんないけど。話の脈絡どこ行ったの」

ああもう、やめて。そんな目尻下げて、笑わないでほしい。

怜の皿に残ったミルフィーユにナイフを垂直に立てると、パサッと空気が抜けるような、乾いた音を立てて何層もの生地が砕け散る。

「なに?変な顔して」
「…元々、変な顔だもん」
「拗ねんなよ、どうした?仕事してたから?ケーキ、もう一個頼んできてもいいよ?」

怜は奥のカウンターの方に視線を向けて言った。
なんとなく顔に力が入って、自分でもどんな感情なのか分からない。
きっと眉は寄っているし、変なところに皺も入っているんだろう。

「もうお腹いっぱいだもん」
「じゃあテイクアウトして夜にでも食べたら。買ったげるから」
「っいいのっ、もう、怜ちゃんといると太る!」

怜は「別に太ってなくない?」と言いながら、残りのミルフィーユを口に運んだ。
半分に切られたいちごが、怜の口に運び込まれていく。

あ、意外と、唇が薄い——。

息を、止めていた。奥で、テイクアウトを待つ人の声が、厚手のカーテンを一枚隔てたように遠のき、隣の客がフォークを皿に置くときの、コツンという音が耳に入った。

自分の指に挟まったままの銀色のフォークが、指先にずっしりと重い。
楓は残りのパイを口に入れた。
噛みしめるたびに、さっきは冷たかったコンポートは少し温かくなっていて、パイの熱は冷めていた。

バターの香りだけを、考えた。