「怜ちゃーん…」
コンコン、とドアをノックすると、怜がドアを開けてくれた。
ひんやりとした冷房の空気が流れてきて、半袖から覗く腕を撫でた。
「どした?」
「今って仕事してた…?ちょっと相談に乗ってほしくて」
ドアの奥にはデスクの上に開かれたパソコンが置いてあり、楓は怜の顔を伺いながら言った。
ノートとペンを抱えた楓を見て、怜は頷いた。
「いいよ、リビング行こ」
「怜ちゃんの部屋でもいいよ?」
「だめ、俺の部屋は」
そう言って怜は背中でドアを閉めた。
肩に手を置かれ、押されるようにリビングまでの廊下を歩く。
「なんで?」と楓が聞くと、「俺の部屋は冷えてるから」と言った。
そういえば今日も部屋着の上にパーカーを羽織っているな、と思いながら楓はソファに座った。
「で、何?どした?」
「私、レッスン自体は好きだし、ちゃんとやってるつもりなんだけど」
「うん」
「でも、オプションとか、次の予約とか…うまく繋がらなくて」
怜は何も言わずに楓を見つめていた。
ソファに対して斜めに座って、楓との距離は少し離れている。
その静けさが、続きを話してもいいよと言われているみたいで、楓は少しだけ言葉を続けた。
「桃香さんとかは、自然に売れてるの。お客さんも楽しそうだし、ちゃんと次も予約してくれるし」
「うん」
「でも私が同じことやろうとすると、なんか…営業してる感じになっちゃって。嫌なんだよね、それが」
「営業っぽくなるのが?」
「うん…なんか、売りつけてるみたいで」
一人で色々言い方などを考えてはいたが、しっくりこない。
少しの沈黙のあと、怜が口を開いた。
桃香や先輩の言い方を真似してみても、うまくそれを落とし込めている気がしない。
「価値提案の設計ミスってるだけなんじゃん?」
「……?」
楓はゆっくりと顔を上げた。
「え、なに?」
「だから、バリュープロポジションが曖昧なんだって」
「……ごめん、もう一回言って」
「顧客に対して何の価値を提供してるのかが、楓の中で整理されてない」
楓は数秒固まってから、顔をしかめた。
ソファの前のローテーブルに開いたノートに怜の言葉を書き込もうと思うも、言っていることがよく分からない。
「難しい言葉使うのやめて」
「え、分かりやすく言ってるつもりなんだけど」
「全然分かんない」
怜は一瞬だけ口元を緩めて、「はいはい」と言った。
机の上に、楓がお風呂上がりに飲んでいたレモネードが残ったままだった。
飲みかけのレモネードのグラスを伝った雫が、じわじわと木製のテーブルに染み、小さな水たまりを作っている。
「うーん、楓ってさ、多分いいレッスンはしてるんだろうけど、でも、この人からまた受けたい理由っていうのが言葉にできてないんじゃない?」
「…?」
「多分、桃香さんって人はそこができてるんでしょ」
怜は、楓の使い古された多色ボールペンを指の間に挟み、「メモなんかすんな」と言って、滑らかな軌道でくるりと回転させた。
「例えば、オプション勧めるときも、買ってくださいじゃなくて、これやるともっと楽しくなりますよって未来を見せるとか。楓は情報だけ出してるんでしょ。選びたくなる理由がないんだよ」
「なるほど…?」
「予約も一緒だと思うよ、楓は今なんて言ってんの?」
怜の言葉に、レッスン終わりに、なんとなく全体に向けて言っていた言葉を思い出す。
「来週もこういうレッスンありますので、よかったら…って」
「だろうな。それだと誰にも刺さらない」
「…じゃあ、どうすればいいの」
楓が前のめりになると、怜は軽く笑って、指先にあったペンを遊ぶようにくるりと回した。
「目の前のお客さん一人にだけ話す」
「え?」
「その人が何で来てて、何が好きで、何が楽しかったのか。それをちゃんと見て、“じゃあ次これどうですか?”って言ってみな」
その言葉は、意外なほど静かで、はっきりしていた。
今までになかった視点の言葉に、楓は、しばらく何も言えなかった。
「それってさ…営業なの?」
「違う。提案、むしろ優しさ?」
「優しさ…」
「その人が楽しめるもの教えてあげてるんだから。楓は多分、全員にちゃんとしようとしすぎなんじゃない?だから逆にぼやけるんだよ」
図星だった。
「あと単純に、楓は遠慮しすぎなんじゃん?そういうのは多少図々しいくらいがいいっていうか、営業なんて基本当たらない前提で打つもんだよ。確率論で回す」
「また難しい言葉言った…」
「なんも難しくないって」
怜が言うと簡単そうに聞こえるが、そんな簡単にできるものなのだろうか。
楓は膝を抱えてその上に頭をくたりと乗せると、怜の掌が、楓の頭頂部にふわりと置かれた。
「ちゃんと考えてるだけ偉い。頑張れ」
「…怜ちゃんってすごいね」
「ふっ、別にそんなことないよ」
部屋から持ってきたノートは真っ白のままで、クーラーの風がふわりとページの端を浮かせている。
風呂上がりに乾かしたはずの髪の毛がじんわり冷えていく感覚がする。
「…今教えてくれたこと、難しい言葉たくさん使ったらどうなるの」
楓の頭を撫でてくれる手が気持ちよくて、怜を見つめながらそう言った。
怜は鼻で笑って、少し考えながら言った。
「えー…レッスン後のアップセル・クロスセル導線が未設計で、顧客ごとのLTV最大化ができてない。提案がマス配信的になってて、パーソナライズされてないからCVRが低い」
「もういい」
「まずは顧客理解をベースに、個別最適なレコメンド設計とリピート導線を組んで、コンバージョンの再現性を作る」
「もういいって」
楓が笑うと、怜も同じように笑った。
だいぶ噛み砕いて教えてくれていたんだということがよく分かり、まるで二つの言語を使いこなしているかのような怜が面白かった。
まるで見てきたかのように、言われることが全て当てはまっていた。楓は喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。
「…レモネード、まだある?」
机の上に残ったままのグラスを見て、怜がそう言った。
「あるよ、持ってこようか」
「いい、自分で持ってくる」
スタジオに来ていたお客さんから国産レモンをたくさん頂いたので、いくつか持ち帰ってレモンシロップを作っていた。
「これ常備しておいてよ」
「ふふ、いいよ。皮も漬けるから、国産のレモンで作るんだよ」
「へえ、俺からすれば楓の方がよっぽどすごいけど」
怜がキッチンからグラスを持ってきて、ソファに座った。
グレーのソファが沈み込んで、怜の足が床についていた。
「なんで?」
「誰でもできるよ、こんなん。カッコつけて難しい言葉使ってるだけ」
「そんなことないでしょ」
「パンとかお菓子とか、美味いご飯作れる方がよっぽどすごいよ」
そう言ってグラスを握る怜の掌は、楓のものより二回りくらい大きい。指の関節が、グラスの表面の水滴を押しのけて白くなっていた。
普段は気だるげにしているこの手が、本当は自分よりもずっと強くて、楓には到底理解できないような複雑な仕事をこなしているのだと思うと、座っているソファの距離が急に近く感じられた。
そんなの、なんでもないのに。
ずっと私が悩んでたこと、ちょっと話しただけでサラッと解決しちゃって。
しかも、私のレッスン見てもないのに全部分かってて。
「…これ、美味いなー」
そんなの、いくらでも作るよ。
怜の手元のガラスのコップの表面には、細かい水滴が浮かんでいて、氷が溶けると、カランと乾いた音を立てた。



