「お疲れ様でしたー!」
オーブンの余熱がまだ残るスタジオに、ぱっと明るい声が重なった。
焼き上がったパンをそれぞれ袋に詰め終えた受講者たちが、満足そうに笑いながら帰り支度をしている。
今日のレッスンは、シンプルなブリオッシュ生地に爽やかなオレンジとマンゴーを入れ込んだパンを作る回だった。
焼き上がったブリオッシュの表面は、卵液の照りでつやつやと黄金色に光り、指で押すと指紋が残らないほどふかふかと柔らかい。
切り口からは、シロップ煮にされたマンゴーの濃いオレンジ色と、細かく刻まれたオレンジピールの鮮やかな黄色がのぞき、オーブンの熱気が引いたテーブル周りに、甘酸っぱい香りがしっとりと漂っていた。
「今日も楽しかったです、ありがとうございました」
「ありがとうございました!お家でもぜひ作ってみてくださいね」
楓が頭を下げながら見送っていると、最後に残っていた女性が顔を上げて言った。
「やっぱり楓ちゃんのレッスン、好きだわ」
ふわりとした笑みと一緒に言われて、楓の手が少し止まる。
「ほんとですか!?ありがとうございます」
「ええ。なんだか安心するの。ちゃんと見てくれてる感じがして」
そう言いながら、カウンター越しに軽く手を振る仕草も、どこか上品で柔らかい。
この女性は園川《そのかわ》 藤子《ふじこ》。近所に住む六十代のマダムで、最近はよく楓のレッスンに参加してくれている。
奥のバックヤードから材料を運んでいた桃香が藤子を見つけ、パッと咲くような笑顔で声をかけた。
「こんにちは藤子さん!」
「こんにちは、桃香ちゃん」
その声に向き直った藤子が、にこやかに挨拶を返す。
桃子が材料を持ったままこちらに近づいてきて話しかけた。
「今日も楓ちゃんの回だったんですね。オレンジとマンゴーのパン、超美味しいですよねー!」
「ええ。試食をいただいたけれどとっても美味しかったし、ぜひお家でも作ってみるわ」
藤子の言葉に嬉しさと安堵が込み上げる。
せっかく参加してもらうからには、家に帰っても作ってもらいたいし、レシピ自体はとても美味しいのだ。それを上手く教えられたという事実が嬉しい。
「今後、私のレッスンにも来てね藤子さん」
「ふふ、桃香ちゃんのレッスンも楽しくて好きだけれど、最近は楓ちゃんのレッスンが好きなのよ」
「えっ」
思わず声が出て、桃香が「あらまー!」と楽しそうに笑った。
藤子は品がよく、持参したさらりとした生地と模様が美しいエプロンを丁寧に畳みながら楓を見て微笑んだ。
「楓ちゃん、よかったじゃん。ファンだねー!」
「いやいや、そんな…ありがとうございますっ」
慌てて手を振る楓を見て、藤子は少しだけ目を細めた。
宝石商の会社を営んでいたらしい藤子は、今はもう会社を息子の嫁に任せて引退しているらしい。週に一度か二度、レッスンを受けに来てくれて、最近は楓のレッスンに参加してくれることが多く、今日のように残って少しだけ話をすることが多かった。
「聞いてくださいよ、楓ちゃん引っ越したらしいんですけど、お兄ちゃんと住んでるんだって」
「まぁ、素敵じゃない」
「桃香さんっ」
立ち上がってエプロンをバッグに入れていた藤子が、桃香の言葉に目をぱちくりとしたあと再び椅子に座った。楓は桃香に声をかけるが、桃香は楽しそうに続ける。
「そう思うでしょ?でも血繋がってないし、今はもう離婚もしちゃって兄妹ですらないんだって」
「あら、素敵ね」
「桃香さんっっ」
藤子は目を細めて顔の前で両手を合わせた。
二人の間に楽しそうな雰囲気が流れていて、楓は思わず先ほどより大きな声で桃香の名前を叫ぶ。
テーブルの上には、生徒が残していったケーキクーラーと強力粉が散らばっている。
桃香まで藤子の隣の椅子を引き、座った。
楓だけが水道のところで立ち尽くしている。
「なにかが始まったらいいのにって思いますよねー」
「そうねえ、男女の関係はいつでも可能性に満ちているのよ」
「素敵な名言です、さすが藤子さん!」
「何も始まりませんって!っ藤子さんも、違いますからっ」
桃香はニヤニヤしながら「否定しちゃうところが怪しいと私は踏んでいるよ?」と言うと、藤子が「若いってなんでもできちゃうものね」と微笑みながら返した。
「っち、違います、本当に、怜ちゃんは、ただの…お兄ちゃんです…」
自分の声が、萎んでいく。
それを見ていた藤子と桃香が楽しそうに顔を見合わせて続ける。
今、そういうことは一番考えたくないのに。
耳が、じわりと熱くなった。
そう思って勢いよくシンクのレバーを捻って、掃除を始める。
「まぁ、楓に怜。素敵なお名前ねぇ」
「しかもね、なんか気だるげなイケメンなの。なんかこう、目元に色気があるタイプ」
「まぁ、厄介ね。そういう方って意外と押されるのに弱いのよ」
「えー!?そうなんですか!?詳しく聞きたいっ」
止まらない会話に楓は思わず目を瞑った。
いい、もう勝手に話していてほしい。そう思って勢いよくシンクのレバーを捻って、掃除を始める。
シンクの蛇口からジャーと勢いのある水音が響き、飛び散った細かな水滴が楓の腕を冷やした。
濡れたスポンジでステンレスの作業台を拭くと、残っていた強力粉が白く濁った筋を作り、円を描くたびに湿った音が鳴る。
排水溝のネットに引っかかったオレンジピールの破片は、水を吸って透き通り、小さな宝石のように見えた。
「ふふ、楓ちゃんがいっぱいいっぱいだから、その話はまた今度にしましょ」
「あ、本当だー。もう、可愛いんだから」
「からかわないでください…」
藤子がバッグを肘にかけて、立ち上がった。
楓も見送ろうと掃除をする手を止めて、エプロンに入れていたタオルで手を拭く。
「じゃあ、次は来週来るわね。また楓ちゃんのレッスン」
「あ、来週のレッスンですね、レモンとカモミールのババロアです!ありがとうございます!」
「下のショップで今日の材料、お買い物させていただくわね」
「あっ、ありがとうございます!!」
藤子が今日のレッスンカードを楓にちらりと見せながら言った。
このカードを見せると、スタジオの一階にある提携している材料ショップで割引が効き、それもスタジオ売上に換算される。
桃子が笑いながら声をかけた。「次は藤子さんの恋愛話も聞かせてくださいねー!」
「ありがとうございました!」
スタジオの扉が開いて、外の光が一瞬だけ差し込んだ。
藤子が乗ったエレベーターのドアが閉まって見えなくなるまで、見送った。
「やったね、藤子さん完全に楓ちゃんのファンじゃん。材料買ってくれるって言ってたし、固定客になってくれるよ」
桃香が楓の肩に手を置いて、笑顔で言った。
「嬉しいです、なんで気に入ってもらえたのか分からないけど…!」
「ここはレッスン内容よりも人柄でみんな気に入ってくれることが多いからねー、楓ちゃんっていじりがいあるし」
「えっ」
桃香は楓の肩をポンポン、と叩くとスタジオに戻っていった。
先ほど二人に遊ばれた会話を思い出し、それが耳の奥で反芻されるたびに、耳たぶが少しだけ熱を帯びた。
試食用のパンがテーブルの上に残っていて、それを口に入れる。
オレンジピールが潰れると爽やかな酸味と苦味を舌に残していって、それをマンゴーの柔らかい甘みと香りが鼻に抜ける。
怜ちゃんって、イケメンなの?色気なんかあったっけ?
押したら弱い?そんなの想像できないよ。
藤子さんも桃香さんも、勝手なこと言って。
ブリオッシュ生地はふかふかと甘くて、バターの香りを感じる。
楓は残っていたもう一切れも口に詰め込み、掃除に取り掛かった。



