キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
怜は、その後も人混みではたまに引き寄せてくれたり、前を歩いてくれたりした。
長く触れることはない。それについて何か言うこともない。

店に入っている間、ショップ袋を持って、スマホを触って近くで気だるげに待っている。
それでも楓が店から出てくると、スマホをポケットにしまって、「次はどこいく?」と声をかけてくれた。

「…怜ちゃんって」
「ん?」
「…なんでもない。何にする?」

結局、三つほどのショップで買い物をしているといい時間になり、予約していたビストロに来ていた。
怜ちゃんって、モテるの?そんな言葉が喉まで出かかって、言うのをやめた。

通りから少し奥に入った店は、ガラス扉越しに暖色の灯りが静かに漏れていた。控えめな間口に小さな看板だけで、隠れ家のような落ち着いた雰囲気だった。
外壁は無機質なコンクリートに、小さな看板だけで、隠れ家のような落ち着いた雰囲気の店構えだった。

カウンター席中心のこじんまりとした店では、カップルや女性客でほとんど満席だった。

「俺、この和牛ホホ肉の赤ワイン煮込みってやつ食べたい。あとは楓が好きなの頼みな」
「とりあえず、パンの盛り合わせと、この自家製ホイップバター、ゴルゴンゾーラと蜂蜜のパン・ペルデュも美味しそう…」
「楓、チーズ好きじゃなかったっけ。この苺とブッラータチーズとピスタチオのサラダってやつは?」
「あー全部食べたい」
「食いなよ、好きなだけ。来たかったから予約までしたんでしょ?」

怜が眉を下げて笑って、メニューを楓の方にずい、と寄越した。
その言葉に、とことん、甘やかされているんだなと実感する。

気になったものを店員に頼み、微発泡のオレンジワインと合いますと勧められたので、一杯だけ頼んだ。

「一杯だけな。こないだみたいに顔真っ赤になるよ」
「怜ちゃんと一緒にいて、怜ちゃんと一緒に家まで帰るんだからいいじゃんー」
「またおんぶさせられたら嫌だし」
「もうしないよ!レシピ開発の参考になるかもしれないじゃん!」

楓の言葉に、怜は渋々「水もたくさん飲んでおいて」と言った。
店内には焼いたパンとバターの香りがする。カウンターの隣の客の前には、厚めにカットされたタルティーヌが置いてあり、それも美味しそうだなと思う。

「あ、ていうか、言おうと思ってたんだけど、やっぱり私お金入れるよ」
「なんで?」
「だって、普通は実家なら入れるじゃん。さすがに全部払ってもらうって言うのは…」

楓の提案に、怜は首を傾けた。
一緒に出かけると大体先に伝票を奪って支払いをしてくれる怜は、きっと今日ここも払うつもりで好きなだけ食べなと言ったんだろう。

「でも俺、これまで家事代行頼んでたけど今は楓がしてくれるから、その分のお金浮いてるし」
「でも怜ちゃん、ちゃんと家事するじゃん」
「え?してなくない?料理はノータッチだし、洗濯もボタン押すだけ、掃除機も楓がやってるし」
「お皿洗ってくれたり…」
「それくらいはするでしょ」

怜はそう言って笑い、テーブルに置かれたワインのグラスを持った。
楓に向かってそっと傾けたので、楓もグラスを持った。

「いいんだよ、貯めておきな」
「…甘やかされてる…」

チン、と怜のグラスが、楓のグラスに軽く当たった。
グラスの中のオレンジワインは、少し濁りのある琥珀色をしていて、照明を透かしてカウンターの木目に柔らかな影を落としている。
一口飲むと、柑橘の皮のような微かな渋みが舌に残る。

カウンター越しに料理が手渡される距離で、目の前からパンの盛り合わせとホイップバターが置かれた。

「何これ?」
「生クリームが入ってる、ふわふわのバターだよ」
「へぇ、楓も作れる?」
「うん、多分…配合はお店によるけど」

怜はバターナイフでそれをパンに乗せ、豪快にかぶりついた。
楓も同じようにして口に入れると、バターは体温ですぐに消えて、ミルクのコクだけを残していく。

「おいし…パンもちもち」
「おー、前に楓が作ってくれたやつに似てる」
「ああ、カンパーニュね。これはチャバタかな」

怜は美味い美味いと言いながらバターをさらにつけていて、作り方を知っている楓は少しだけカロリーが気になりつつも、同じようにバターを追加した。

「わー美味しすぎる…水分の割合どれくらいなんだろ、どうやってこんなモチモチにするんだろ」

パンの断面からは、細かな気泡が網目状に広がり、しっとりと濡れたような光沢が照明を反射している。指で少し押しても、離した瞬間に元の厚みに戻るような弾力もある。


「…ついてる」


手に持ったパンを観察する楓を見た怜が、ふ、と軽く笑って、楓の唇の端を親指で拭った。少し硬い皮膚の感触と、熱に近い体温が、一瞬だけ肌に押し当てられる。

「……ありがとう…」

声が、少しだけ掠れた。

「このホイップバター、美味い。家でも作って」
「うん…」

思わず怜の指を目で追った。
拭い取られたホイップバターは、怜の指の熱ですぐに柔らかく溶けていって、指先に薄い膜を作って馴染んでいった。
口の中に残った小麦の香りが、鼻にすうっと抜けていった。

「…怜ちゃんって…」
「ん?」
「チャラい…」
「は?なにが?」

それ以上は言いたくなかった。言葉の続きが、自分でも分からなかった。
目の前に苺とブッラータチーズの前菜が置かれ、料理の説明が始まったので会話は途切れた。手に持ったままのチャバタについている強力粉が、手の中でかさりと擦れているのが分かった。

「やっぱ、家にお金入れるっ」

思わず口からこぼれた話を蒸し返されたくなくて、店員が去った後に楓はそう言った。怜は怪訝な顔をして楓を見つめた。

「話が戻ったな。いらないって」
「じゃあ代わりになんかする!」

怜はカトラリーからナイフとフォークを取り出し、ブッラータチーズを切っていた。
中からとろりと濃厚な生クリーム状のチーズが溢れ出し、苺の赤い果汁と混ざり合う。

「なんかってなに?」
「なんでも!考えておいて、してほしいこと!」
「えー?何もないけど」

クラッカーのように薄く焼かれているバゲットに手を伸ばし、チーズと砕いたピスタチオ、苺を乗せると、口に運んだ。
カリカリとした音と共にナッツの香ばしさが鼻に抜ける。

「いいのっ、とにかく考えておいて」
「はいはい」

怜も楓と同じようにして口に運んだ。
「美味すぎる」とぼそりと言った言葉が、耳に届く。
初めてクッキーを焼いて持っていった時も、怜は同じ言葉をくれた。

ああ、パンが足りない。もっともっと口に運んで、胃も頭もいっぱいにしなければ。