キャラメリゼ ワンルーム

 
 
 
 
 
七月半ばの日曜日の昼過ぎ。楓と怜は電車に乗って、出かけていた。

楓の仕事はシフト制で、曜日が固定ではない。
料理スタジオという職場柄、土日に出勤になることが多いのだがたまたま今週は日曜が休みだったので、基本的に休みの日も家にいる怜を連れ出して買い物に来ていた。

「で、どこ行くの?」
「決めてないよ?」
「えっ」

怜が着ている黒いシャツが、強い日差しを反射して、とろりとした独特の光沢が浮き出ている。
白のデニム、黒のラフなサンダル姿の怜が、戸惑った声を出した。いつもはだらんとした部屋着か、たまに見るスーツ姿なので私服を見るのは久しぶりだ。

「何買うか決めてないもん」
「決めてないのに買い物に行こって言ったの?」
「買い物ってそういうもんじゃん」
「俺の概念とは逆だ」

髪の毛もスーツ姿の時とは違って、ラフにセットされていて流された前髪の毛束が歩くたびにふわりと揺れている。
電車を降りると、むわりとした熱気が全身を包んだ。下ろしたままのボブの髪を後ろに流すようにすると、少しだけそこに風が通った。

楓が今日着ている黒のノースリーブワンピースは、下がボリューミーなスカートだから上半身はタイトだった。黒が何だか暑苦しくて、服装の後悔をしたところだった。

「てか、昼からで良かったの?パン屋とかカフェ行くって言いそうじゃん」
「えへ、夜にはパンビストロを予約しております」
「予約済みなんだ…」

怜が呆れながらそう言った。土曜日のターミナル駅は人が多い。人を避けながら改札を出ると、更に人の波が押し寄せてくる。

「まずどこ行くの」
「えっと…ルミネエスト?」
「人すっげー多いじゃん。てかそれなら何でこっちの改札出たの」

怜がそう言いながら、楓の背中をぐいと引き寄せた。そのまま引っ張られるようにして向きを変えられた後、すぐに手を離される。

「危ない、ちゃんと見て」
「ごめん…」

細いリブ素材に押し当てられた、手のひらの硬さ。
手を離された後も、その場所だけに不自然な違和感が肌に残った。

首筋に、汗が一筋垂れた。

「俺の後ろ歩いて」
「うん…」

怜が歩き出して、楓はその後をついていく。
人をかき分けるようにして歩いてくれる怜の歩幅は、いつもよりゆっくりな気がした。混雑しているからだろうか、それとも楓に合わせてくれているのだろうか。

たまにこちらを振り返る怜と目が合うと、少しだけ安心した。

反対側の改札から出てしまったからか、ビルに入るまでの距離が長く感じた。
後ろから見る怜の首筋には汗はなくて、熱いのは自分だけかと思いながら、その後ろ姿を見ていた。背中を引き寄せられた場所が、まだ少しだけ熱かった。





「これ、試着してきていい?」
「どうぞ。俺、店の外にいていい?」
「えっダメだよ、カーテン開けた時にちゃんと似合うか見てよ」
「俺に、この若い女の子だらけの狭い店内で待ってろって?」

お気に入りの服屋に入ると、可愛い白のワンピースを見つけ、後ろについてきていた怜に声をかけた。
本当におじさんみたいなことを言うじゃん、と思いながら楓は首をすくめて笑い、店員に声をかけた。試着室は空いていたらしく、すぐに店の奥に案内された。

カーテンを閉めようとすると、周りを見渡している怜が視界によぎり、楓はまた笑った。

「どう?」
「…いんじゃない?」

カーテンを開けて怜に問いかけると、真顔でそう返された。
具体的な返しが来ると思っていなかったが、あまりにも興味のなさそうな返事に思わず苦笑してしまう。

「こっちと迷ってるの」ともう一着持ち込んでいたワンピースを見せた。
同じような白いワンピースだが、胸元の切り替えやスカートのボリューム、レースのつき方が違ってどちらも可愛かった。

「じゃあそっちも着たら」
「うん、今のこの姿もちゃんと覚えておいてね!」
「難しくね?」

そしてもう一着を着替え、カーテンを開けると怜がスマホを触って待っていた。
「どう?」と楓が聞くと、怜はまた「いんじゃない」と言った。

「参考にならなさすぎるよ」
「どっちも可愛いよ」

さらりと言われた言葉に、少しだけ視線が泳いだ。
女性店員が「お疲れ様でしたー!」と元気よく楓の元に寄ってきて、笑いかけた。

「そちらの服、今日入荷したばっかりなんです!昨日まで完売してて!」
「えーそうなんですか!」
「お客様の骨格にも合ってて、すごく可愛いです!彼氏さんもそう思いません?」

動きが止まったのは楓だけだった。
怜はなんの動揺も見せずに、「可愛いですね」と返した。

「…こっちに、しようかなぁ」
「でも最初の方が白くて、明るくて、似合ってたよ」

怜がそう言って、試着室の壁のハンガーにかけていたワンピースを指差した。
店員がその視線を追い、「あちらも人気なんですよ、こちらの方が色展開は豊富です!」と補足説明をしてくれる。

「…こっちの方が良かった?」
「俺はね。スカートの先が可愛かった」

まっさらなホワイトのノースリーブワンピは、膝下あたりから切り替えが入っていて、そこからたっぷりとボリュームのあるギャザーフリルが重なっている。
店員が何やらまた補足説明をしてくれているのに、何となく頭に入ってこない。

「…じゃあ、こっちにしようかな」
「うん、可愛い」
「…着替えてくるっ」

楓は勢いよくカーテンを閉めた。厚手の布が勢いよくレールを滑る音がして、外の喧騒がふっと遠のいた。
フェイスカバーを頭に勢いよく嵌めて、ずぼりとワンピースを脱いだ。
可愛いなんか、今まで言われたことあっただろうか。
店員さんに促されたからって、あんなに何度も繰り返されたら、恥ずかしいよ。

試着室があって良かった。
今、怜に顔を見られたくない。

壁に設置されている鏡を見ると、情けない下着姿の自分が映っていた。
自分の心臓の音が、この狭い箱の中で跳ね返って、耳の奥まで響いてくるのが分かった。

ゆっくり着替えを済ませて、入念に忘れ物がないかの確認をして、少しだけ息を吐いてから、カーテンを開けた。

怜はスマホを見ていた。楓が出てきたことに気づいて、顔を上げた。
こんなにも「可愛い」という言葉を意識したのは、初めてかもしれなかった。