「怜ちゃん、本当にお願い!」
「えー…?嫌だよ」
六月、じめっとした土曜日の昼下がり。
コーヒーチェーンで楓がそう言うと、目の前の人物は眉を寄せて返事をした。
藤村楓は、今年の三月に大学を卒業したばかりの社会人一年生だ。
小さな木の丸テーブルを挟んで、気だるげにしているのは、蓮見《はすみ》怜《れい》、楓の六つ上の兄だ。
二人の苗字が違うのは、今はもう兄妹ではないからだ。
「だって、通勤時間が一時間半なんだもん!こないだなんて、家に帰ったの二十三時だった!」
「あーかわいそー」
「でしょ!?そんな都心の、いきなりハイレベルなところに配属されるなんて思わないじゃん!」
「社会なんてそんなもんだよ」
「ちょっと、真面目に聞いてよ!」
「聞いてるよ」
怜は白いプラスチックのカップを、指先だけで緩く持って、外を見ながら中身を啜っている。ストローに口をつけたまま、返事をする気配がない。
冷房の冷たい空気が、じっとりとした外気ごと肌に貼りついた服をすうっと剥がすように通り抜けていく。
わざわざ休みの日に楓が怜を呼び出したのには、切実な訳があった。
「千葉から通うのは本当にしんどい、だから怜ちゃんの家に住まわせてほしい」
「一人暮らしすればいいじゃん」
「だから、代官山なんていう高級住宅地の料理スタジオに配属されたの!近くなんて家賃いくらすると思ってるの!」
「うん、高いねー」
「でしょ、はい、怜ちゃん今の家の立地言ってみてよ」
「中目黒、徒歩五分」
「決定じゃん」
「何がだよ」
楓が新卒で入社した会社は、関東に料理教室を展開している会社で、そこの料理スタジオ講師として採用されたのだ。
配属先の希望を聞かれた時に、千葉の実家近くにある商業施設内のスタジオを希望したのでてっきりそこになると思っていたのだが、辞令に記されていたのは都内の一等地に設けられた、富裕層向けの少しお高めの料理スタジオだった。
「だって、怜ちゃん家からならスタジオまで十分で着く…」
「…俺ん家なんて来たら、お母さん寂しがるんじゃないの」
「……それはそうかもだけどさ」
楓が高校生になったタイミングで、楓の母と怜の父が再婚した。
小学六年生の頃から定期的に会わされており、兄弟がいなかった楓は「お兄ちゃん」ができるということで懐いていたため、とても嬉しかった記憶がある。
高校生の間、四人で一緒に暮らしたが、その家族生活は呆気なく、三年で終わりを迎えた。
「でも、おじいちゃんおばあちゃんもまだまだ元気だし、お母さんもいいよって言ってたよ」
「え?もう千夏《ちなつ》さんに許可取ったの?」
「うん、怜ちゃんなら良いんじゃないって言ってた!」
「はー…、手回してんの、すでに?」
千夏さん、というのは楓の母だ。
今は千葉で祖父母と母と暮らしていて、結婚している間は出ていたが、再び離婚したので千葉に戻っていた。
「怜ちゃんだって、社会人一年目の時に町田から六本木に通うのしんどそうだったじゃんー!気持ち分かるでしょ!?」
「分かるけどさー」
「何をそんなに渋ってんの?今のお家、二部屋あるんでしょ?そこ一つ貸してよー!」
「仕事部屋にしてんだよ…」
光が当たると少し茶色がかって見える、柔らかい髪が重力に従って垂れた。
その髪を目で追いながら、楓は目の前の飲み物を啜った。
ダークモカとチョコチップの冷たい甘さが、すっきりと喉に流れていく。
「ちゃんと食べてないでしょ、怜ちゃん。ご飯作ったげる」
「えー…」
「家事も私がする!」
「うーん…」
「パンも焼くよ!私前より上手くなったんだから!怜ちゃんの好きな明太フランス、パリパリに焼けます!」
料理上手だった母の影響で、小さい頃からお菓子作りやパン作りをするのが好きだった。ただの粉や卵やバター、ありふれたものを緻密に作り上げていき、美しく仕上げるその工程が好きだった。
「怜ちゃーん…どうしてもダメ?」
言えることは全部言った。これ以上、何も出てこない。
自分のプレゼン能力の無さに絶望しながら、楓は怜を縋るように見つめた。
仕事のできる怜に、自分ごときのしょぼいプレゼンなんて響くはずがなかったんだ、とテーブルに額をつけると、冷たくて硬い感触が眉間に当たった。
コーヒーの匂いが近くなって、しばらく沈黙があった。
それから、重さを確かめるように、ゆっくりと頭に手が乗った。
怜の手は大きくて、少し冷たかった。
ああ、懐かしい。
上手くいかない日、怜は決まって何も言わずにこうしてくれていた。
「…分かったよ」
「えっ!」
降参するように吐き出されたため息が、わずかに楓の髪を揺らした。
その静かな言葉に、楓は勢いよく頭を上げて怜を見た。
勢いよく頭を上げたせいで、少し首が痛かった。それでも目が離せなかった。
怜は仕方なさそうな顔をしていた。その顔を見るのが、昔から好きだった。
呆れているのに、見捨てない顔。
「いいの!?」
「だって、俺がいいって言わないと終わんないでしょ」
「怜ちゃん大好き!」
「はいはい、ありがとー」
怜が奢ってくれたチョコレート味のドリンクをごくごくと飲み干す。
甘くて少しだけ苦くて、チョコチップを追加で入れてもらって正解だった。
ストローを吸うたび、冷たい甘みの奥でチョコチップが歯に当たり、ゴリリと音を立てて砕けていく。
ここ最近で一番のミッションを終えて、一気に気持ちが晴れやかになる。
口元の緩みが抑えられない楓を見て、怜は小さく笑った。
「家事、頼んでいいの?」
「もちろん!怜ちゃんのパンツも洗うから!」
「やめて、それはいい」
「ご飯も作る!美味しいの!」
「…無理のない範囲でいいよ」
そんな優しい兄が、ずっと好きだった。
その気持ちは今でも変わらない。
血は繋がっていないし、今はもう兄妹でもないけれど、大切な兄だと思っている。
「怜ちゃん家、オーブンある?」
「え、ない。レンジしかない」
「じゃあ今から買いに行こ!パン焼くのに必要!」
「え?今から?」
「だって引っ越しまでに欲しいし!」
テーブルの上に置かれている怜のカップを渡し、早く飲んでと急かすと、また仕方なさそうに笑った。この顔が、昔から好きだった。
「いつから引っ越すつもりなの?」
「あのね、実はもうね、業者に見積もり取ってるから、来週とかにはいけるの」
怜はしばらく楓を見てから、天井を仰いだ。
「お前は…ほんと、意外と抜け目ないよね」
「えへへ」
「褒めてない」
緩む口元を押さえながらそう言うと、眉を顰めた怜がため息をついた。
そう言いながらも飲み物は飲み干してくれていて、「捨てて来るから貸して」と楓のカップを手に取った。細い指が、ストローをそっと押さえた。
一緒に住んだのは、高校三年間だけ。
それでも付き合いはもう、十年になる。
窓の外、濡れたアスファルトに人の傘が流れていく。毎日楽しかったあの日々がまた待っているのかと思うと、自然と笑みが溢れた。
ダストボックスから戻ってきた怜が、そんな楓の表情を見て、小さく鼻を鳴らした。
ドアが開くたびに、雨を孕んだ外の空気が入ってきた。
微かに苦いコーヒーの匂いに混じって、六月の湿った風の匂いがした。



