病院からの帰り道、芽依子が一人暮らししているアパートに立ち寄る。
今日も実家に泊まることにしたので、必要な荷物を取りに来たのだ。
駐車場からアパートまで並んで歩いていると、自室前に立つ人影を認めた瞬間、芽依子の足がすくんだ。
「……うそ」
恐怖で喉が引き絞られ、か細い声がこぼれる。
隣を歩く遥希が、鋭く眉を寄せた。
「めい?」
「芽依子!大丈夫か?」
こちらに気づいた達雄が、大股で詰め寄ってくる。
その顔には、心配している振りをした独善的な苛立ちが透けて見えた。
「達雄先輩……どうしてここに?」
「メッセ送っただろ、心配してたんだぞ。怪我はどうなんだよ」
「あ……うん、大丈夫です。そんなに酷くないから」
本当は、彼に突き飛ばされた背中がまだ疼いている。
けれど、余計なことを言って逆撫ですれば、何をされるかわからない。
芽依子が視線を彷徨わせた刹那、江崎の目が、彼女の隣に立つ遥希を捉えた。
「おい、芽依子。この男、誰だよ」
「どうも。池田です。昨日、彼女を病院まで搬送しました」
芽依子を隠すように前に出た遥希は、救命士としての冷静な、けれど射抜くような視線を江崎に向ける。
「お前……昨日の救急隊員かよ。わざわざ会うのか?……芽依子、またお前、男に色目使いやがって!」
江崎の言葉に、アルコールの嫌な匂いが混じる。
(はる兄に迷惑かけたくないっ)
芽依子は反射的に肩を震わせつつ、説明しようと前に出る。
「違うっ、はる兄はそういうんじゃなくて、お母さんに頼まれて……っ」
「口答えするなよ! 俺っていう彼氏がいながら、他の男とチョロチョロ調子こいてんじゃ——」
「お前がな」
遥希の低く地を這うような声が、江崎の罵声を真っ向から遮った。
一瞬で空気が凍りつく。
遥希の瞳には、救急のプロの顔ではない、獲物を逃さない獣のような光が宿っていた。
「昨日から思っててん。お前、何様のつもりや」
「あ……?俺は芽依子の彼氏だぞ、部外者は出しゃばってくんじゃねぇよ!」
「知るか。俺が勝手に、芽依子を好きでいるだけやけど」
「ずっと前からな」
瞬間、遥希は芽依子の手を取ると、自分の背中に庇うように引き寄せた。
彼特有の清潔な匂いに、芽依子の思考が真っ白に弾ける。
「——っ!? な、何して……っ」
「女に手ぇ上げるクソ野郎にも、誰にも、芽依子は渡さん。二度と触んな」
遥希が放つ圧倒的な体躯と威圧感に、江崎は毒気を抜かれたように立ち尽くした。
「は……? おい、芽依子! お前っ……!」
「ごめんなさい、先輩。……疲れてるから、今日はもう帰ってください」
遥希の熱を感じる手を隠すように、芽依子は絞り出すような声で告げた。
江崎はなおも食い下がろうとしたが、遥希がその間を鉄壁の盾のように遮る。
「くそっ……また連絡するからな、覚えとけよ!」
捨て台詞を吐いて去っていく江崎の背中を見送り、遥希はようやく深く長い溜め息をついた。
「あいつ、ほんまにめいの彼氏なん?」
「うん……一応。でも、もういい加減、別れたい」
「……あんな奴に家まで知られてるんは、流石に危なすぎるわ。この部屋に一人で戻すわけにはいかへんしな」
遥希の表情から、いつもの余裕が消えている。
彼は真剣な眼差しで芽依子を見つめ、迷いのない口調で言い切った。
「とりあえず、必要な荷物だけ取ってこい。……今日から俺んとこ、住み。一緒に暮らそ」
「えっ!?でも……はる兄、彼女とか……迷惑じゃ――」
「もう決定。いらん心配せんでええから」
驚愕する芽依子の言葉を、遥希は優しい強引さで封じ込める。
彼は芽依子の両肩を掴み、その瞳の奥を覗き込んだ。
「言うたやろ?俺はめいの味方や。絶対に、一人にはせえへん」
「……大好きなめいを、全力で守ったる」
(……きっと、はる兄の『大好き』は、妹としての意味……)
胸の奥が甘く、ひりつくように痛む。
けれど、江崎への恐怖で凍りついていた心は、彼の腕の中で確かに溶け始めていた。
今は、その言葉に甘えてしまいたい。
ちゃんと自分の問題を解決して、彼に恥じない自分になってから。
――本当の気持ちは、それからだ。
「……お世話になります」
「こちらこそ。……さ、早いとこ準備して、芙美ちゃんたちに報告しに行こか」
遥希の大きな手が、芽依子の頭を優しく撫でる。
その温もりは、幼いあの日、指切りをして交わした約束と同じ熱を帯びていた。
幼いころの記憶が、鮮やかに蘇る。
『はる兄が、セカイでいちばん、大好きっ』
『俺も、めいが世界一大好きやで』
『じゃあ、めいとケッコンしてくれる?』
『――もちろん、絶対離さへんからね』
絡めた薬指の熱は、今でも芽依子の胸の奥に残っている。
疑わなかった二人の想いに、揺らいで蓋をしたのは――。
(はる兄を忘れようとして、誰かを好きになろうとして……)
それでも心の奥にはずっと残っていた。
「めい。今度こそ守る」
そう言った遥希の声が耳から離れない。
逃げたはずの初恋は――
今度は、逃がしてくれそうになかった。
今日も実家に泊まることにしたので、必要な荷物を取りに来たのだ。
駐車場からアパートまで並んで歩いていると、自室前に立つ人影を認めた瞬間、芽依子の足がすくんだ。
「……うそ」
恐怖で喉が引き絞られ、か細い声がこぼれる。
隣を歩く遥希が、鋭く眉を寄せた。
「めい?」
「芽依子!大丈夫か?」
こちらに気づいた達雄が、大股で詰め寄ってくる。
その顔には、心配している振りをした独善的な苛立ちが透けて見えた。
「達雄先輩……どうしてここに?」
「メッセ送っただろ、心配してたんだぞ。怪我はどうなんだよ」
「あ……うん、大丈夫です。そんなに酷くないから」
本当は、彼に突き飛ばされた背中がまだ疼いている。
けれど、余計なことを言って逆撫ですれば、何をされるかわからない。
芽依子が視線を彷徨わせた刹那、江崎の目が、彼女の隣に立つ遥希を捉えた。
「おい、芽依子。この男、誰だよ」
「どうも。池田です。昨日、彼女を病院まで搬送しました」
芽依子を隠すように前に出た遥希は、救命士としての冷静な、けれど射抜くような視線を江崎に向ける。
「お前……昨日の救急隊員かよ。わざわざ会うのか?……芽依子、またお前、男に色目使いやがって!」
江崎の言葉に、アルコールの嫌な匂いが混じる。
(はる兄に迷惑かけたくないっ)
芽依子は反射的に肩を震わせつつ、説明しようと前に出る。
「違うっ、はる兄はそういうんじゃなくて、お母さんに頼まれて……っ」
「口答えするなよ! 俺っていう彼氏がいながら、他の男とチョロチョロ調子こいてんじゃ——」
「お前がな」
遥希の低く地を這うような声が、江崎の罵声を真っ向から遮った。
一瞬で空気が凍りつく。
遥希の瞳には、救急のプロの顔ではない、獲物を逃さない獣のような光が宿っていた。
「昨日から思っててん。お前、何様のつもりや」
「あ……?俺は芽依子の彼氏だぞ、部外者は出しゃばってくんじゃねぇよ!」
「知るか。俺が勝手に、芽依子を好きでいるだけやけど」
「ずっと前からな」
瞬間、遥希は芽依子の手を取ると、自分の背中に庇うように引き寄せた。
彼特有の清潔な匂いに、芽依子の思考が真っ白に弾ける。
「——っ!? な、何して……っ」
「女に手ぇ上げるクソ野郎にも、誰にも、芽依子は渡さん。二度と触んな」
遥希が放つ圧倒的な体躯と威圧感に、江崎は毒気を抜かれたように立ち尽くした。
「は……? おい、芽依子! お前っ……!」
「ごめんなさい、先輩。……疲れてるから、今日はもう帰ってください」
遥希の熱を感じる手を隠すように、芽依子は絞り出すような声で告げた。
江崎はなおも食い下がろうとしたが、遥希がその間を鉄壁の盾のように遮る。
「くそっ……また連絡するからな、覚えとけよ!」
捨て台詞を吐いて去っていく江崎の背中を見送り、遥希はようやく深く長い溜め息をついた。
「あいつ、ほんまにめいの彼氏なん?」
「うん……一応。でも、もういい加減、別れたい」
「……あんな奴に家まで知られてるんは、流石に危なすぎるわ。この部屋に一人で戻すわけにはいかへんしな」
遥希の表情から、いつもの余裕が消えている。
彼は真剣な眼差しで芽依子を見つめ、迷いのない口調で言い切った。
「とりあえず、必要な荷物だけ取ってこい。……今日から俺んとこ、住み。一緒に暮らそ」
「えっ!?でも……はる兄、彼女とか……迷惑じゃ――」
「もう決定。いらん心配せんでええから」
驚愕する芽依子の言葉を、遥希は優しい強引さで封じ込める。
彼は芽依子の両肩を掴み、その瞳の奥を覗き込んだ。
「言うたやろ?俺はめいの味方や。絶対に、一人にはせえへん」
「……大好きなめいを、全力で守ったる」
(……きっと、はる兄の『大好き』は、妹としての意味……)
胸の奥が甘く、ひりつくように痛む。
けれど、江崎への恐怖で凍りついていた心は、彼の腕の中で確かに溶け始めていた。
今は、その言葉に甘えてしまいたい。
ちゃんと自分の問題を解決して、彼に恥じない自分になってから。
――本当の気持ちは、それからだ。
「……お世話になります」
「こちらこそ。……さ、早いとこ準備して、芙美ちゃんたちに報告しに行こか」
遥希の大きな手が、芽依子の頭を優しく撫でる。
その温もりは、幼いあの日、指切りをして交わした約束と同じ熱を帯びていた。
幼いころの記憶が、鮮やかに蘇る。
『はる兄が、セカイでいちばん、大好きっ』
『俺も、めいが世界一大好きやで』
『じゃあ、めいとケッコンしてくれる?』
『――もちろん、絶対離さへんからね』
絡めた薬指の熱は、今でも芽依子の胸の奥に残っている。
疑わなかった二人の想いに、揺らいで蓋をしたのは――。
(はる兄を忘れようとして、誰かを好きになろうとして……)
それでも心の奥にはずっと残っていた。
「めい。今度こそ守る」
そう言った遥希の声が耳から離れない。
逃げたはずの初恋は――
今度は、逃がしてくれそうになかった。



