幼なじみの救命士は、再会した初恋の私を今度こそ逃がさない 〜拒否権なしの溺愛同居〜


「え?……本気で言ってるんですか?」
 
——まただ。
そう思った瞬間、胸が冷たく凍っていく。
 
「だから、お前とは無理、もう別れる」

(彼から別れを切り出されたのは、これで三度目)
(でも本当は、今日はあたしから終わらせるつもりだったのに……)
 
小雨混じりの、六月初旬の金曜日。
水谷芽依子(みずたにめいこ)の視線は、目の前で喚く男の先にある夜空を見る。
暗闇の中、どんよりと低く垂れ込めた雲は、まるで出口のない彼女の毎日を映し出しているようだった。

「お前、会計のとき、そこの店員に色目使っただろ?」

芽依子の彼氏である――江崎達雄(えざきたつお)は、店前で人目も憚らず罵詈雑言の嵐だ。 

(……また、このやりとり。もう限界っ)  

「……普通に注文しただけですっ。というか、あたしも別れたい――」 
「言い訳するなっ!!」

江崎は大きく一喝して、空気を遮る。
もう何を言っても、聞く耳を持たないと感じた。
   
「芽依子の、そういう男に媚び売るとこ、ムカつくんだよっ!!」  

(いやっ……) 

酔っ払った彼の怒鳴り声と共に、振り上げられた拳が、本気で振り下ろされる気がして——。
芽依子は反射的に、目をつむって顔を防ぐ。
 
その際、バランスを崩して足に力が入らず、後ろによろけた。
 
「危ないっ!!」

誰かの鋭い声が聞こえた。
低くて、懐かしい。 
けれど、思い出すより先に。
芽依子は背中を硬い自転車のフレームに打ちつけ、その勢いのまま後頭部がアスファルトを叩いた。
 
​鈍い衝撃と共に、視界の中で火花が散る。
芽依子は立ち上がることが出来ず、地面に倒れ込んだまま、意識が少しふわふわしている。
 
(あれ?……)
 
「めいっ!」
 
しばらくすると誰かの話し声と、サイレンの音が遠くで聞こえる。
 
「血圧が110の60、脈拍が70回、酸素飽和度が97%――」
「おい、意識レベルが戻ってきたぞ……」
 
芽依子の耳に、ゆっくりと、でも確かな声で質問されているが分かった。
 
「ご自分の名前、言えますか?」
「みず……た……に……めい……こ……」 

視界に入る機材の数々と、耳にこだまするモニター音。
芽依子はここが救急車の中だと気づいた。
 
少し目線を動かすと、青と水色の防護服らしきものに身を包んだ男性たちが、何やら話している。
そして、ヘルメットに貼られた『救急救命士』の文字が目に入った。
  
「病院決まりました、出発します」 
「めいっ……」 

その中で、一人の救急隊員が芽依子の手を包む。

(この体温……その呼び方……知ってる)

聞き間違えるはずない。
何年も会っていないのに、体が先に思い出してしまう声。

芽依子は、手に感じる懐かしい温もりに、そっと握りかえす。
ここにいるはずの無い名前が、唇から零れおちた。 
 
「……はるにぃ」 
「めい、もう大丈夫やからな」
 
あの頃と変わらない優しい声と、大きくてあたたかい手。
 
(はる兄の声……夢なら甘えてもいいよね)

芽依子は、今も大好きなのに、逃げてしまった初恋の名を呼んだ。

「……はる兄、こわいよ」
 
何かに怯えているのか、芽依子が眉を寄せ顔をしかめている。 
 
「たすけて……」
「手、離さへん。大丈夫や、俺はここおるから」
 
浅い呼吸に混じるか細い声は、まるで心の叫びみたいに届く。 
  
「めい。今度こそ守る」 

遥希は離れないよう、逃がさないよう、強く大事に握りなおす。
あの日、公園で何もできなかった自分とは違う。 
そして空白だった時間をすべて埋め尽くすように。
二度と喪わないと言われているみたいだった。
   
(はる兄が側にいるみたいで、安心する)
 
一筋の涙と一緒に、芽依子の意識は深い闇の底に落ちていった。