「え?待って……本気で言ってる?」
——まただ。
そう思った瞬間、胸が冷たく凍っていく。
「だから、お前とは無理、もう別れる」
(前も別れようとしたら、『冗談だから』って言ったのに……)
せっかくの仕事終わりの楽しい一杯も、全て消し飛ぶ言葉。
水谷芽依子の視線は、目の前で喚く男の先にある夜空を見る。
暗闇の中、どんよりと低く垂れ込めた雲は、まるで出口のない彼女の毎日を映し出しているようだった。
小雨が降りだしそうな、六月初旬の金曜日。
活気溢れる居酒屋の店前で、ここだけ、梅雨らしいじめじめした重い空気になる。
「お前、会計のとき、そこの店員に色目使っただろ?」
芽依子の彼氏である――江崎達雄は、人目も憚らず罵詈雑言の嵐だ。
(……また、このやりとり。もう疲れた)
「はい?……普通に注文しただけ……」
「うるさいっ!!」
江崎は大きく一喝して、空気を遮る。
もう何を言っても、聞く耳を持たないと感じた。
「芽依子の、そういう男に媚び売るとこ、ムカつくんだよっ!!」
(誰か助けてっ……)
酔っ払った彼の怒鳴り声と共に、振り上げられた拳が、本気で振り下ろされる気がして——。
芽依子は反射的に、目をつむって顔を防ぐ。
その際、バランスを崩して足に力が入らず、後ろによろけた。
「あ、転ける」とスローモーションみたいに、世界が反転する。
「危ないっ!!」
誰かの鋭い声が聞こえた直後、芽依子は背中を硬い自転車のフレームに打ちつけ、その勢いのまま後頭部がアスファルトを叩いた。
鈍い衝撃と共に、視界の中で火花が散る。
「大丈夫ですか?!」
駆け寄ってくれた男性店員さんに、「大丈夫」と言いたいのに、舌が自分のものじゃないみたいに重くて回らない。
先ほど飲んだビールの酔いか、それとも強打した衝撃のせいか。
芽依子は立ち上がることが出来ず、そのまま地面に体を預けたまま、意識が少しふわふわしている。
(あれ?……)
暫くすると誰かの話し声と、サイレンの音が遠くで聞こえる。
「血圧が110の60、脈拍が70回、酸素飽和度が97%――」
「おい、意識レベルが戻ってきたぞ……」
芽依子の耳に、ゆっくりと、でも確かな声で質問されているが分かった。
「ご自分の名前、言えますか?」
「みず……た……に……めい……こ……」
視界に入る機材の数々と、耳にこだまするモニター音など、芽依子はここが救急車の中だと気づいた。
少し目線を動かすと、青と水色の防護服らしきものに身を包んだ男性たちが、何やら話している。
そして、ヘルメットに救急救命士の文字。
「病院決まりました、出発します」
「めいっ……」
その中で、一人の救急隊員が芽依子の手を包む。
(この体温……その呼び方……知ってる)
芽依子は、手に感じる懐かしい温もりに、そっと握りかえす。
ここにいるはずの無い名前が、唇から零れおちた。
「……はる兄」
「めい、もう大丈夫やからな」
あの頃と変わらない優しい声と、大きくてあたたかい手。
(はる兄の声……夢なら甘えてもいいよね)
芽依子は、今も大好きなのに、逃げてしまった初恋の名を呼んだ。
「……はる兄、こわいよ」
「たすけて……」
「手、離さへん。ここおるから」
何かに怯えているのか、芽依子が眉を寄せ顔をしかめている。
浅い呼吸に混じるか細い声は、まるで心の叫びみたいに届く。
「めい。今度こそ守る」
遥希は離れないよう、逃がさないよう、強く大事に握りなおす。
まるで空白だった時間をすべて埋め尽くすように。
二度と離さないと言われているみたいだった。
(はる兄が側にいるみたいで、安心する)
一筋の涙と一緒に、芽依子の意識は深い闇の底に落ちていった。



