土曜日の朝、橘とはモーニングを食べ終わりしばらくしてから解散した。
解散する頃にはだいぶ、いつも通りの会話ができていて、胸のつっかえが取れたような気持ちで帰宅した。
ただ、予定もなくダラダラと過ごしていたせいか、ふとした時に金曜の記憶の片鱗が頭をよぎって、穏やかとは言えない一日だった。
「お、お疲れ」
「おつかれー」
ただ月曜日、フロアですれ違った際も自然に挨拶ができて、何となくお互い目くばせをして、軽く笑った。
意味もなく、すれ違った後に自分に笑みが溢れた。
その日はその後、顔を合わせることはなかった。
関係は何も変わっていないのに、少しだけ距離が近くなったような気がして、友達だけど友達ではない曖昧さが、何だか恥ずかしかった。
「そういえば、今週来るんだよね?」
そして数日後の週半ば、エレベーターホールで再び遭遇した時、何気なく橘が言った。昼休みが始まってしばらく経ったエレベーターには他に誰もいなかった。
橘の声がその小さな箱に一瞬だけ響いて消えた。
密閉されたエレベーターの中に、橘の纏うシトラス系の香水と、微かな柔軟剤の匂いが詩乃の鼻に届く。
逃げ場のない狭い箱の中で、隣に立つ彼の肩の厚みや、呼吸に合わせて動く胸板が、やけに近く感じられて、詩乃はそっと自分の指先を弄った。
「あ、うん、土曜だよね」
「そう、店の場所送ったよね?リマインドしておくよ」
「ありがと」
エレベーターの壁にもたれて腕を組む橘のスーツ姿は、相変わらず様になっていて悔しい。
「私が行ってもいいんだよね?」
「いいよ、新田を誘えば?って言ったのあいつらだし」
橘はそう言って、腕の時計を伏し目がちに眺めた。
長いまつ毛が少し伏せられているその顔を詩乃がしばらく見つめていると、なに?と軽く笑って橘は言った。
「や、なんでも」
「変なの」
橘が鼻で笑ったのと同時に、エレベーターのドアが静かに開いた。
橘は手を前に差し、お先にどうぞと言った。
ボタンを押してくれている橘に軽く頭を下げ、詩乃は隣に並んでコンビニに向かった。
土曜日は、橘に誘われた飲み会がある。
主催は同期の人事部、橋立《はしだて》 健人《けんと》──通称ハシケンだ。
橋立は橘と同じ大学・同じ学部の友人であり、詩乃にとっては大学時代に所属していたインカレサークルの同期でもある。
入社時に同じ会社だと知って以来、橋立とはたまに連絡を取っていた。
今回は橘の大学時代の友人、男三人の集まりだが、そのうち橋立を含む二人は、詩乃とも顔馴染みだ。
詩乃とも久しぶりに会いたい、と声をかけられ、詩乃も参加することになった。
「あ、気まずい?久しぶりだよね?」
「気まずいとかはないけど。久しぶりだなー!」
「そっか。連絡も取ってないの?」
橘が、コンビニの自動ドアを抜けながら言った。
詩乃も、一直線にお弁当のコーナーに足を進める橘に着いて行く。
お昼が少し過ぎた時間の棚は、ポツポツ空きが目立つ。
「ハシケンはたまに。同期の飲み会の時とか?」
「あー、あいつ、本当にそういう企画好きなー」
詩乃の方を見ずに、橘はそう言いながらお弁当を吟味していた。
手の甲の血管と、つるんとした肌、もみあげがかぶさる耳へと視線が滑って、詩乃は慌てて棚に目を戻した。
週末に、断片的に思い出した映像。
その節の目立つ手が、丁寧に身体に触れていたし、密着する肌は、少しだけ乾燥していた。
腹筋に触れた時、指先を跳ね返すような筋肉の硬さと、その奥から伝わってきた熱。
コンビニの冷気の中にいるはずなのに、その感触をなぞった指先だけが、じりじりと熱を帯びていく。
耳元で、何かを呟かれた記憶と、その、熱かった温度。
爪はきちんと短くて、痛かった記憶はない。
ワックスで固められたままの髪の毛が顔に当たると、くすぐったかった。
そんな行為の片鱗ばかり思い出してしまったから、橘の指や耳や髪を、意識せずにはいられなくて、
「買うの決まった?」
「あ、うん」
「時間なくなるよー」
橘は、詩乃の横をするりと抜けて、後方の飲み物の棚へと移動していった。
あの日のように、執拗に詩乃を気遣ったり、目を合わせようとしたりはしない。
いつも通りで、詩乃もそうしているはずだ。
それなのに、詩乃は橘から目が離せなくなっている。
きっとそれは、思い出してしまったせいで、むしろそこしか記憶がないから、
「じゃあ俺、先行くね」
「うん、またね」
飲み物と菓子パンを手に抱えた橘が、まだ弁当コーナーにいる詩乃に声をかけて、レジに向かった。
さっきまで詩乃の脳内を掻き乱していたその指が、今はカサカサと音を立てる菓子パンの袋を無造作に掴んでいる。
詩乃はその背中を少しだけ見つめて、無理やり視線を戻した。
何も頭に入っていなかった棚の陳列に再度目を向けて、頭の中の雑念を振り払うようにして、無理やり昼食のことだけに目を向けた。
こんな状態で、土曜日の飲み会、普通に過ごせるだろうか。


