「…朝ごはんでも食べよっか?」
駅に向かう道の途中で、橘はそう言った。
特に断る理由もなかった詩乃も、いいよ、と言った。
「ここでいい?」
「うん」
駅のそばにあるビルの一階に、チェーンのコーヒーショップが入っていた。
昨日の居酒屋を選ぶ時と同じトーンだなと思いながら、詩乃は店に入る橘の後に続いた。
「なに食べる?」
「んー、ハムたまごサラダのセットで…アイスコーヒーかな」
「オッケー」
「え、払うよ」
「いいよ会計分けるの面倒だし。俺も同じのにしよっと」
そんな話をしているうちに会計の順番が来て、橘がカウンターで注文を始めたので、詩乃は奥にある、向かい合わせの席を一つ確保した。
「新田って、フレッシュとガムシロ使う?」
一応持ってきたけど、と言いながら橘がトレーを持って戻ってきた。
アイスコーヒーが二つと、番号札が乗っていた。
「ううん、ブラックが好き」
「そっか、俺もブラック」
お酒の好みも、居酒屋の好きなつまみも、何となく把握しているのに、コーヒーの好みは知らなかった。
「あのさ」
「ん?」
詩乃の言葉に、橘は横に向けていた視線を移した。
こういう時だけ、橘の顔の良さが恨めしい。
「友達っていうのは、変わらないよね?」
「あー…、新田が、いいって言ってくれるなら…」
「いや、うん、そりゃ、いいよ」
「うん、ありがと」
昨日も、居酒屋じゃなくてこうやって落ち着いて、ただの食事をしていればよかったんだろう。
そんなことを思いながら、コーヒーをちびちび飲んでいると、店員がサンドイッチを持って来た。
橘がにこやかに店員にお礼を言いながら、詩乃の前にサンドイッチを置いた。
「はい、冷めないうちに」
「ありがとう」
こんがりと焼けたパンから、レタスと卵サラダがはみ出している。
有線で、知らない音楽が微かに店内に流れている。
「あのさ、橘」
「ん?」
「友達ってさ、セフレって意味じゃないよね?」
「ブフッ」
吹き出しそうになった橘が、慌てて口元を掌で塞ぐ。パンの屑が数粒、テーブルに零れた。
整った男がするコミカルな動きに、詩乃も思わず笑みが溢れる。
橘は少し前のめりになった姿勢で、口に含んだサンドイッチを勢いよく咀嚼した。
口元を手で覆いながらじろりと詩乃を睨むようにして見た。
「急にやめてくれる?違うよ!」
「ごめんごめん」
女の子が何を言ってんの、と橘は続けた。
「こっちがせっかくさぁ…」
「ふ、ごめんって」
橘はそう言った後、何かを飲み込むように、言葉を濁した。
昨日からずっと固かった橘が、いつもの調子に戻ってきた気がして、詩乃は少しだけ安堵した。
「…なんかさ、」
「うん?」
橘はサンドイッチを平らげて、手についた粉を皿の上で払いながら言った。
シャワー後でワックスのない前髪が、ゆっくりと柔らかく落ちていく様子を、詩乃は目で追った。
「こうやって、新田と、朝まで過ごしてさ。二回。二日連続で」
「…うん」
「土曜の朝に、一緒にサンドイッチ食べて」
「うん」
「なんか、変だね」
「…そうだね」
詩乃も返事をして、残っていたサンドイッチを平らげた。
口の中にハムの塩気が後を引く。
アイスコーヒーが半分くらい残っている、透明のカップを掴む橘の指先に、ふと目が止まる。
指、長いな。
骨張った、硬そうな指。
その指が、私の身体の上を滑って、きっと撫でて、
詩乃は無意識にそこまで考えて、自分の脳内に浮かびそうになったそれを打ち消した。朝から、橘の目の前で、なんてことを。
「ねぇ、」
「ん?」
橘が、コーヒーを置いて、視線だけを詩乃にチラリと向けた。
さっきかき上げたはずの前髪は、もう目にかかっている。
その隙間から覗く大きな二重の目が、こちらを見据えていた。
「ちょっと良かったのは、覚えてる」
少し意地悪そうにそう言った橘の口角は、片方だけ上がっていた。
詩乃は、何を、とか、いきなり、とか、言いたいことは山ほどあった。
でも、何も出てこなかった。
橘はそれを見て、くしゃりと笑った。冗談めかして笑う橘の横顔。
けれど、かき上げた髪の隙間から覗く耳たぶは、茹で上がったように赤く熱を持っていた。


