「…好きに、なってほしいって…」
「……」
ベッドサイドのライトと、入り口の明かりだけが部屋をぼんやりと照らしていた。
それゆえに、橘がどんな顔をしているかがよく分からなくて、詩乃の不安を煽る。
「どういう、こと」
自分の発した声が、震えた塊となって落ちていくようだった。
橘は、少しだけ俯いていた。だらりと下がった前髪が、顔を隠していた。
「…そのままだけど」
「……好きって」
「…うん」
今までの橘との会話の中で、一番の核に触れている。
橘は、布団にくるまったまま、小さくその中で膝を抱えて座っていた。
「えっと…橘は、私のことが好きなの…?」
「…そうだよ」
チラリと、橘が詩乃を見た。
暗闇の中で、大きな瞳が一瞬だけ詩乃を捉えた。
ホテルの空調と、自分の心臓が、やけにうるさい。
「…なんで…いつから?」
「知らないよ、気づいたらだよ」
「…そうなんだ…」
目の前に突きつけられた事実に、上手く対処ができない。
さっきまで惨めな気持ちで帰るつもりだったのに、どくどくと血液を運ぶ音が、何も身につけてない自分の身体を纏う空気が、熱い。
「…分かんなかったの?結構分かりやすかったでしょ、俺」
「……分かんなかった」
「ふ、嘘でしょ」
橘は少しだけ笑ってそう言った。
自嘲気味な笑みだった。さっきまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩んだ。
「えっと、…橘」
「…詩乃はさぁ、俺のことずっと苗字で呼ぶし、そう思えばたまに名前で呼んで、一緒にいる時に嬉しそうにしてくれるのに、連絡はくれないし」
「……」
「俺のこと好きなのかなって思っても、ああ違うんだって何回も絶望するんだけど」
布団にくるまったまま、カサリと羽毛布団が擦れる音を立てて、橘が距離を詰めてくる。
目の前に橘の綺麗な顔が映る。その長い睫毛が少しだけ震えているのが分かった。
自分と同じように、緊張しているのだと肌で感じて、詩乃の心臓が脈打つ。
「身体から入ったから?だから付き合えないの?」
「え…」
「…どうやったら付き合えるかなんて、女の子に詰め寄ったの、俺初めて」
「…あの、私」
「ふ、ダサいね。こういう気持ちになるんだね」
橘から出てくる主張が予想外の方向のものばかりで、それを受け入れるのに時間がかかった。もうどうにでもなれという、自棄のような気持ちを橘の言葉の節々に感じる。
橘が、微かに笑みを浮かべて詩乃を見る。
裸になった大人二人が、薄暗いホテルのベッドの上で何やっているんだろうと思ったら、なんだか面白く感じて、詩乃も少しだけ笑った。
「…ここで、そんな可愛く笑うの」
「え?」
「…好きだよ。もう俺は降参だよ」
「ふ、待って橘」
とりあえず、一人で突っ走っている橘に、まずは事実を伝えよう。
「好きだよ、私も」
「え?」
「橘が、好きだよ」
「…何それ?」
今度は橘が、状況の理解ができなくなったようだった。
綺麗な顔が、戸惑ったように歪んだ。
詩乃はもう一歩、布団ごと前に近づいた。
橘の髪の毛が、空調の風でそよそよと揺れていることに気づいて、可愛いなと思った。
「ごめんね、すぐに言えなくて」
「…俺のこと好きなの?」
「うん」
「…じゃあなんで帰るとか言ったの」
「私は好きだから着いてきたけど、橘が身体だけなんだと思って…終わったら虚しくなったから?」
「なにそれ…」
橘が顔を項垂れさせた。
見るからにがっくりしている様子がなんだか面白くて、詩乃は少し笑った。
「ごめんね」
「…いつから?」
「え?」
「いつから俺のこと好きだったの?」
いつの間にか抱きしめられる距離にいる橘の頬に手を当てて、詩乃は自分の方を向かせた。
少しだけ眉毛を下げた橘が、詩乃を子犬のような目で見つめていた。
ただひたすらに詩乃の答えを待つ、ひどく無防備な輝きを宿している。
可愛い、愛おしい、抱きしめてほしい。
そんな感情が一気に湧いてきて、ああ、もう、これを素直に言ってもいいんだという事実が、ふわりと胸の中で温かさとなって広がっていく。
「分かんない。気づいたら?」
「…一番最初にホテルに行った時は、俺のこと好きだった?」
「全然」
「っふ、全然なのか」
橘はくしゃりと笑った。
あ、いつも通りの顔だ。久しぶりに見た。
詩乃も笑みを浮かべると、橘の顔がゆっくりと近づいてくる。
橘はくるまっていたはずの布団から身体を出して、片方の手で詩乃の手を握った。
「…付き合ってよ」
唇が触れる直前に、橘の唇が微かに動いて、そう言葉を紡いだ。
「…うん」
詩乃が短くそう漏らすと、橘の唇が触れた。
もう何回もしてきているのに、それ以上のこともしているのに、今ベッドの上でお互い何も身につけていないのに、今までで一番心臓がうるさかった。
しばらく触れるだけのキスだったのに、何度も角度を変え、確かめ合うように繰り返される唇の接触に、胸の奥が、じわりと痺れていくのを感じた。
唇を離した時には、お互いの熱い息が漏れていた。
「…俺のこと、好き?」
「うん、好き」
「……俺も好き」
そう言って、橘は、詩乃の目尻に先ほどのキスから浮かんでいた涙を拭った。
橘は目尻を下げて笑うと、押し倒すようにして、勢いよく詩乃に覆い被さった。
「わっ、」
急な衝撃と勢いで、詩乃はボスリと鈍い音を立ててベッドの上に転がった。
先ほどまで誰もいなかったその場所のシーツは少しだけひんやりとしていた。
「ごめん、勢い強かった」
橘は詩乃の上に跨って、顔を近づけて、唇まであと一センチほどの場所で少し止まった。
焦点の合わないほどの近さの中で、橘と目が合っているのが分かった。
早くキスをして欲しくて、待ちきれなくて、詩乃は少しだけ顎を動かした。
それを待っていたかのように、橘は詩乃の頬に手を当てて、唇を合わせた。
優しい唇だった。
それに安心して目を閉じた。
それでも少しだけ不安になって、もう一度目を開いた。橘が瞼を閉じていることを確認して、また安心して目を閉じた。多分、今までで一番優しくて、一番長いキスだった。
唇が離れた後、橘は少しだけ嬉しそうに言った。
「…もっかいしていい?」
「え?」
「元気になっちゃった」
そう言って、橘は笑った。
詩乃もつられて笑った。その空間は、今までの友達の時のような雰囲気と変わらなくて、もっと早く言っていればよかったと思った。
「うん、しよ」
たまらなく可愛いこの男の頭を、くしゃりと撫でて、詩乃は頷いた。


