徐々に、徐々に、少しずつ追い詰められていくみたいだった。
上り詰めた後は、もうなにがなんだか分からなくなって、目の前の橘の存在だけが確かなもののような気がした。
まるで、高い崖の端で、そこで崖に背を向けているようだった。
正面には橘だけがいて、他には何もなくて、気づいたら真っ逆さまに落ちていったかのようだった。
そうして、詩乃の上で呼吸を乱す橘を、詩乃も余韻に浸ったまま見ていた。
汗と湿気で、乱れた橘の髪の毛が、ワックスの残りで変な方向に跳ねていた。
「…私、」
自分の口から漏れた音は、少しだけ掠れていた。
橘が、髪の毛をかき上げながら、聞こえなかったかのように聞き返した。
暗くて表情は見えなかった。
完全に真っ暗だったわけではない室内だったが、だんだん目が慣れていった。
だから、橘があまり目を合わせてくれなかったことくらい、気づいていた。
分かってた、橘が私のことを好きじゃないことくらい。
「今日は、帰る」
曲げていた膝の裏は、じんわりと汗ばんでいた。
長い間、その姿勢でいた事実が詩乃を纏う。
手でそれを拭って、詩乃はベッドを抜け出して、ベッドの下に落ちていた下着を、ゆっくりとつけた。
「…もう、電車ないよ」
橘が、小さい声でそう言った。
詩乃がそちらに視線を向けると、上半身だけ起こした橘が、布団にくるまって、詩乃を見ていた。
キングサイズのベッドに、橘の身体だけがぽつりとあった。
それをいつまでも眺めていたいような、橘のその腕の中で眠ってしまいたいような気持ちを振り切った。
「歩く」
「危ないから、…泊まれば」
「じゃあ、タクシーで帰るよ」
ここに、いつまでもいる虚しさに比べたら、なんでも良かった。
「帰んないで」
ぎしり、とマットレスが沈む音がして、詩乃の腕が強く引かれた。
いとも簡単に再びベッドに倒れ込んだ詩乃の上に、橘は再び跨った。
「ちょっ、」
「…ほんとに、詩乃は…っ」
橘の手が、詩乃の背中にするりと回った。
それしか身につけていなかったものが、ぷちり、という小さく冷たい音を立てた。
簡単にそれを外す手つきに妬いたのは、何度目だろう。
「なに…?」
「っ詩乃は…どうしたら、」
そう言って、橘は詩乃に唇を重ねた。
「んっ」
はっきり言ってよ、と言ってしまいたかった。
けれど、はっきりさせるのも怖かった。
「…もう一回するって言ったら、まだここにいる?」
「……さぁ、どうだろう」
ありのままの姿で、ベッドに仰向けになっている詩乃を、同じように何も纏わず見下ろす橘の表情は、重力に従って垂れている前髪が隠していた。
「…したいようには、見えないけど」
「っ」
詩乃は、膝を立てて、橘のものにツン、と触れた。
強気でいないと、この部屋の冷たい空気と、橘に潰されてしまうと思った。
それが詩乃を挑発的にさせた。ここで素直になれない女だから、確かな確証が持てないと動けないから、ここまで拗れてしまったんだろうと、詩乃はぼんやりと考えた。
「…詩乃は…俺のこと……どう思ってるの」
「…どう、って…」
一定のリズムで部屋を冷やし続ける空調の音が、静まり返った室内で質量を持って響く。
少し動くと擦れて鳴る、シーツの音さえも、マットレスのぎしり、という音さえも、聴覚を敏感に刺激していた。
「呆れた?嫌いになった?もう友達も、無理?」
詩乃の髪の毛が、頭の後ろで歪んだ束になって広がっている。
橘の声は、少しだけ震えているような気がして、つい、正直な言葉が漏れた。
「…ちがう」
「違うの?じゃあ、なに?」
空気が、ピリリと張り詰めた気がした。
余裕のなさが橘を纏っていて、それが詩乃にも伝わってくる。
もう、思ったことを、全部、ぶちまけてしまえ。
「…何で私だけに聞くの?私だけに、全部、委ねないで…」
「……」
「…橘は、どう思ってるの」
橘と、ずっと視線は合っていなかった。
それが、とても怖かった。
ぞわり、と寒気がして、詩乃は起き上がって、足元にあった布団を肩まで引っ張り上げて身体を隠した。
詩乃に跨っていた橘は、大人しく身体をずらして、ベッドの上に座り込んで、詩乃の動きを目で追っていた。
「…俺のこと、好きになってよ」
詩乃は勢いよく、橘を見た。
橘の指先がシーツを白くなるまで握りしめている。
いつもはスマートに何でもこなすその手が、今は行き場を失って、ただ布をくしゃりと歪ませていた。
「…え?」
詩乃から、掠れた声が漏れた。
とっくに巻きが取れたセミロングの髪の毛が、遅れて肩のあたりを撫でた。
答えを急かすような静寂の中で、自分の心臓の音だけが裏切り者のように速く、熱い。


