「な、に、橘」
自分の口から漏れた声が、掠れていることに遅れて気づく。
一瞬だけ掴まれた腕は、もう離されていた。
「避けるのやめて」
「…避けてなんかないけど」
今日は金曜日だから定時で帰ろう、と部署の誰かが上げた声に乗っかる形で、するりとオフィスを後にしたつもりだった。
橘の目線からして、私と話すために待っていたのだろう。
「一旦会社出よう」
橘は、詩乃の言葉を無視するようにそう言って、ちょうど到着したことを知らせたばかりのエレベーターに乗り込んだ。
逃げ切ったと思っていたのに。そう思いながら、詩乃もその後に続く。
幸いにも、他に誰も乗り込んで来なかった。
さっき腕を掴まれたところを、他の誰も見ていませんように。そう祈っていると、橘がぽつりと言葉を発した。
「コンビニであんな態度とっておいて、避けてないは無理があるでしょ」
「…知らないけどー」
「お前さぁ…。まぁいいや、とりあえず帰り道で話そ」
エレベーターが一階に到着し、一旦そこで会話は終わりとなる。
いつもなら何も気にならない、隣との距離を妙に意識してしまうのは私だけだろうか。
無言でオフィスを出て、そのまま近くの地下鉄の入り口へと降りる。
階段を降りる詩乃を、少し前を歩いている橘がちらりと振り返って様子を伺う。
詩乃はそれに気づきつつも、何も言わない。
「俺、朝起きたらホテルにいたんだけど」
階段を降りると、橘が唐突に言った。
詩乃はその言葉に、ぶわりと血が一気に逆流したような感覚に陥る。
詩乃が橘に目線を送ると、なんてことないような顔をして詩乃を見下ろしていた。
思わず足が止まる。
地下通路を流れる無機質な人混みの熱気が、詩乃の頬を撫でる。
橘が発した、ホテル、という単語だけが、鼓膜の奥で嫌な粘り気を持って反響していた。
周りの誰にも聞こえていないはずなのに、全身の毛穴が開くような心地悪さが走る。もう数歩、足を進めたら、そこに紛れることができるのに、階段下から足が動かない。
「新田、」
橘がそう言った瞬間、階段上からコツンとハイヒールの音が聞こえて、詩乃は我に帰る。
橘も同じだったのか、ふわりと流れるようにセットされた前髪を、くしゃりとかき上げてため息を吐いた。
「とりあえず話そう。この後予定は?」
「…ない」
「じゃあ、ご飯行こ」
「……」
「あのさぁ」
橘は呆れたような顔をして、詩乃を見た。
長いまつ毛と、ふわりと流れている前髪が目につく。
普段はあまり意識しないけれど、橘ってやっぱり、綺麗な顔してるんだな。
そんなどうでもいいことを考えてしまうのは、現実逃避なのか。
「お互いもう分かってるんだから、無理だよ」
「無理かな」
「このまま知らんぷりするのは」
「…わかったよ」
橘は、とりあえずいつもの駅でいい?と詩乃に言った。
詩乃もそれを了承する。
再び少し前を歩き出す橘の身体は、スーツ越しでもスタイルが良いとわかる。
振る舞いや顔からも、今までモテてきたことは明白だが、こういうことは、橘は慣れているんだろうか。
酔った勢いでこういうことになるなんて、橘には大したことではないんだろうか。
「新田、何食べたい?」
「なんでもいいよ」
「あるでしょ、食べたいもの」
「じゃあ、焼き鳥」
「焼き鳥ね」
いつもの駅に到着した。
少し歩いたところには居酒屋がたくさんあり、橘がそこを歩きながら、適当にここでいい?と選んだ店は、大衆居酒屋で多くのサラリーマンがいた。
満席に近かったが、偶然空いていた奥の二名掛けの小さなテーブルに通された。
「まずさ、確認なんだけど」
席に着くなり、ビールでいいよね、と橘が二つ頼んだ。
飲み物が届かないうちから、橘は少し早口で言った。
なんだ、橘も焦ってるのかと思うと、詩乃は少し安心した。
「うん」
「あのさ、昨日さ、」
「…うん」
「あのー、うん、」
勢いよく言い始めた割には、橘は言葉を選んでいたようだった。
きっと気を遣ってくれているんだろうと思ったけれど、詩乃からも言い出せない。
そんな微妙な空気の中ビールが到着し、とりあえず、とグラスを合わせて音を鳴らした。何に乾杯なのかさっぱり分からないまま、その透き通った黄色い液体を喉に流し込んだ。
橘はそれをごくごくと勢いよく飲むと、また少し早口で言った。
「ホテルいたの、新田だよね?」
なんていうストレートな聞き方だ、と詩乃は思いつつ、散々迷うもそこに着地してしまうところが橘っぽくもあり、でも余裕のなさも垣間見えて少し笑みがこぼれた。
「なに笑ってんの」
「…や、うん、そうだよ」
「やっぱりそうだよね」
「…うん、橘も、覚えてないんだよね?」
詩乃の言葉に、橘は髪の毛を少し乱暴にかき上げて言った。
そこから覗く眉毛は、少し下がっていた。
結露したグラスの表面を、冷たい雫が指の間を伝って落ちていく。
掌に張り付く水滴の冷たさが、逆に火照った顔を際立たせるようで、詩乃はグラスを握りしめた。
「…新田も覚えてないの?」
「……なんにも」
「俺もさ、ほんと全然、覚えてなくて」
でもさ、と橘は少し気まずそうにしながら、目の前に置かれた枝豆をつまんだ。
長い指がはじき出す緑の豆を口に入れて、そのまま皮を置いた皿を見つめながら橘は言った。
「そういうこと、したんだよね?」
「……うん、私が起きた時何も着てなかったし、」
ゴミ箱に色々落ちてた、と言うと橘は黙った。
そして、そっか、とぽつりと言った。
詩乃は空気に耐えられなくて、メニューに手を伸ばし、パラパラとめくった。
正直内容はほとんど頭に入ってきていなかったが、焼き鳥のページを開いてそこに視線を向け続けた。
「…どうしてそうなったか、覚えてないじゃ済まないと思ってるし、新田に本当、申し訳ないなって思ってる」
「……や、私も、覚えてないし、別に、」
「男と女じゃ、違うだろうしさ、」
「……」
詩乃も、別に謝ってほしいわけではない。自分にも非はあるし、責めるつもりもない。ただ、この関係がなくなるのだけは、嫌だと思っていた。
「俺はさ、これからも新田と友達でいたいんだけど」
橘は、冗談も誤魔化しも挟まずに言った。
詩乃はメニューから顔をあげて、視線を橘に向けた。
傍を通りがかった店員が、飲み物追加されます?なんて空気の読めないタイミングで声をかけた。
目を向けると、橘のビールのグラスは空になっていた。
いつの間に飲んだんだろう、橘も、緊張しているのだろうか。
もう一杯ビールと、適当に焼き鳥を何本か、詩乃が好きなポテトサラダと簡単な品物を適当に頼んだ橘は、再び詩乃に視線を送った。
その流し目すら様になる姿に、詩乃は思わず顔をしかめる。
「新田は、どう思ってる?」
「…私も、橘と友達でいたい」
「ほんと?」
橘が身体を前のめりにしながらそう言った。
詩乃が笑いながら頷くと、橘も、ようやく少し口元を緩めて、ありがとう、と言った。
あー、橘も同じ気持ちだったんだ、嬉しい、と思った詩乃は、残りのビールを一気に流し込んだ。橘も安堵したような表情を浮かべていて、
ああ、昨日のことはなかったことにしていいんだ、お互い最中を覚えてないからそこの気まずさはないし、良かった、と
思って、
ああ、これで終わりだと思ったのに、
金曜日の熱が居酒屋にこもっていたからなのか。
「え…待って」
隣で寝ている橘を、再び見つけた時は、夢を見たのかと思った。
…待って。昨日の今日で、そんなわけない。
そう自分に言い聞かせながら動くと、昨日と同じ、あの不自然に反発の強いウレタンの感触が後頭部を押し返してきた。
隣に横たわる橘の、少し熱を帯びた独特の匂いが鼻腔を突き、詩乃は全身の血が凍りつくのを感じた。
勘弁してくれ、と後ろに動いたら布団がずれて、目の前の橘が、かすれ声をあげながら目を開いた。ねえ待って待って、
「え……新田?」
一度あることは二度ある。昔の人が唱えることは、大体正しかったということだ。


