今夜は君の夜屑

  
 
 
 
 
「あ」

目が合った男に、詩乃は思わず声を出した。
今日は真菜と外でランチを済ませた詩乃は、コンビニに寄る真菜と一階で別れた。

エレベーターホールで待っていると、ドアが開いて、降りてきた橘が詩乃を見て、気まずそうな顔をした。それでも目を逸らされなかっただけ、マシだと思った。

「ちょっと、新田」
「…なに?」

エレベーターを降りた橘が、詩乃を手招きしてホールの隅に歩き出した。
会社で話すことなど、今までもあったというのに、目立ったことをしないでほしいと思ってしまうのは、自分が後ろめたい気持ちだからかもしれない。

新田と呼ぶのは、もう終わりだからか、会社だからだろうか。
ここが、車の中だったら違ったのかなんて、架空のもしもを考えながら、詩乃はついていく。


「あの、さ」

フロアの隅で、橘は壁に肩をつけて、話す。
エレベーターの無機質な到着音と、行き交う人のざわめきが、たまに流れてくる。

もうなんてことのない雰囲気、なんてものはなかった。
何度も知らないふりをしてきた私たちの間に、気まずい空気が流れていた。
いつも飄々としていて、へらりと女をかわしているくせに、動揺しているのだろうか。

「なに…」

このまま、終わるかもしれないと思った。
この気まずい空気に圧迫されて、窒息してしまいそうだ。

「ちゃんと時間とって、話したい」
「…この間のこと?」
「……うん、それも、そうだし…色々…」
「…うん」

オフィスの一階の、高く吹き抜けた天井から、無機質な空調の音が絶え間なく降ってくる。
ガラス越しに差し込む午後の光は、あんなに明るいのに、詩乃の指先までは温めてはくれない。

「俺、今週忙しくて、金曜でもいい?」
「うん」

また金曜日か、と橘の提案になんだか気持ちが沈んでいく。最近まったくいいことが起こっていない曜日なだけに、変に警戒する気持ちが湧いてきてしまう。

「じゃあ、また後で」

詩乃が頷いたのを確認して、橘は去っていった。
まるで軽口という言葉が、私たちの間から消えてしまったようだった。

エレベーターホールに戻るとそこには誰もいなかった。
もしかしたら真菜も先に行ったのかもしれない。

ああ、あたたかいコーヒーでも買えば良かった。エントランスには空調が効いていてとても快適なのに、身体がどこか冷えていくようだ。
 
 











「…あの、この間は、ごめん」

橘が開口一番にそう言った。


橘と別れてすぐ、メッセージで、居酒屋がいいか、普通のアルコールなしの店がいいかと聞かれた。
アルコールはない方が良かった。でも煌々とした電気の下でシラフで向き合う気まずさには耐えられない気がして、居酒屋がいいと返信した。

もう「お酒のせい」にはしないと決めたはずなのに、お酒がないと向き合えない。

そして予約された店は、いつもの二人の中間地点の駅から歩いてすぐの、カフェ&バル、と書かれた店だった。

テラス席が見える、室内の奥の席に通された。
もう夜も少しじんわりと暑いからか、そこを利用している人は一組だけのようだった。

「…うん」

ごめん、に対して、私もごめん、と謝るのは違う気がして、詩乃は短く返した。

「乱暴にしたし、…疑っちゃって」
「…そんな、節操ない女じゃないよ、私」

そうだよね、と橘は自分の前髪をくしゃりと掴むようにした。
頼んだ料理はまだ来ない。
シラフでは話せないかもしれない、と頼んだ、シャンディガフと、橘の生ビールだけが机の上で、泡を立ちのぼらせている。

「そんなこと、分かってたんだけど…」
「…けど?」

橘が濁した言葉を、詩乃が促した。
何を言われるのか分からなくて、詩乃はテーブルに肘をつき、両手で口元を覆う。
自分の吐き出した熱い息が、手のひらの中で逃げ場を失い、湿った熱となって跳ね返ってくる。


「…詩乃は、俺のじゃないから」
「え?」


橘が、ぽつりと、言葉を落とした。


「……だから、不安になる」
「…なんで」
「……なんでだろう」


好きだと、言ってくれたら良かったのに。
橘が自分の気持ちが分からないのなら、私に分かるわけがないのに。
付き合って、私は好きなの、と言えたら、そんな素直な女の子だったら、どんなに良かっただろうか。

「…なんでって……」

そんな顔で困るなんて、反則だと思った。
慣れてるはずのくせに、今さら戸惑うなんて、橘はずるい。

明らかに、女の子に慣れているんだろうなという顔と振る舞いをしておいて、今更詩乃に対して戸惑って、コントロールできないと嘆く、でもその理由は分からないらしい。

「…うん」

炭酸が弾ける音はとても小さいのに、やけに耳障りだ。
スピーカーの関係なのか、店内に入った時に流れていた音楽は、奥の席には届いてこない。

料理が届くまでは、口をつけないでおくつもりだったグラスに、詩乃は口をつけた。
弾ける喉越しは、いつもと違って爽快には感じない。


好きだと、言ってしまったら、うまくいくだろうか。
詩乃はそう思ったが、その言葉は喉の上まで出かかって、掠れた空気になって吐き出された。

私も、大概、臆病だね。