「…なに、今の通知?」
「えっと…」
覗き込むようにして顔を見られ、詩乃は橘から視線を逸らす。
ベンチの隣にまっすぐ伸びる街灯が、そこだけを照らしている。
「ハシケンと飲んでたの?」
「う、うん」
「なんで隠したの」
「えっと…」
「なんで友達って言ったの」
「…嘘、ついたわけじゃ…」
橘の声色と言葉から読み取れる苛立ちが、詩乃の体温を下げていく。
「ハシケンって言わずに、なんで友達ってボカしたの」
「…ごめん」
「ごめんってなに」
「……」
橘は詩乃から視線を外し、大きくため息を漏らした。
髪の毛をぐしゃりとかきあげる仕草をして、ベンチの背に手を回した。
詩乃は思わず、肩をすくめる。自分の黒のパンプスを見つめることしかできない。
街灯の白い光に照らされて、濃い影を作っている。
真上から降り注ぐ街灯の光は、逃げ道を塞ぐように白く、冷たい。
「…ハシケンと、なんかあんの?」
先ほどまでの穏やかな雰囲気とは真逆の空気の冷たさに、詩乃は言葉に詰まる。
橘の瞳の奥だけが真っ黒な淵のように深く沈んでいる。
足元に伸びる自分の影が、橘の影に飲み込まれていくのをただただ見つめる。
「…詩乃」
橘が詩乃の頬に手を添えて、無理やり自分の方に向かせた。
優しい力加減だったにも関わらず、真っ直ぐに橘の方を向かせられて、詩乃は逃げることができない。
橘の陰った顔の背後には、街灯の光が差していて夜空は見えない。
「…アイライン、にじんでるよ」
橘が静かに言った。
トイレで涙が溢れたことを思い出し、詩乃の息が止まる。
「涙が出るようなこと、したの?」
「え、」
「…詩乃、キスするだけでよく涙出るよね」
「ちが、」
詩乃の返答など耳に入っていないかのように、橘は言葉を投げつけていく。
「あと、やってる時も」
「たちばな、」
「そういうこと、したの?」
「待っ、ちがう」
橘の真っ直ぐな目つきが、詩乃を射抜く。
そんな解釈をされるとは夢にも思っていなかった詩乃は、どう弁解していいのか分からず、うまく言葉にできない。
「俺は、セフレなの?」
「ちが、んっ」
詩乃が言い終わる前に、橘は唇を重ねた。
ひやりとした感触で、思ったよりも冷たかったそれに詩乃は慄く。
それなのに、漏れていく息は熱い。
「ん、っ」
息もつかせてくれなかった。酸素を欲して無意識に詩乃が身体を捩る。
それを見越していたかのように、橘の手が詩乃の頬と背中を固定するように回っていた。
呼吸を奪う強引さで口内を舐めまわされて、角度を変えて唇が重なっていく。
詩乃は何かに縋りついていたくて、必死に橘のTシャツを掴んだ。
橘の胸元でくしゃりとなったその生地のように、思考が崩れていく。
私の意思なんか、関係ないって、言われているみたい。
そんな考えが脳内に浮かぶも、必死で舌を合わせてしまう自分が情けなくて、熱くて、夢中だった。そして唇が離れて、橘が顔をゆっくりと引いた。
「…なみだ」
「っ」
「いつも、そう」
顔の隙間は、数センチほどだった。
夜風がその間を流れて、触れ合っていた肌を撫で、少しだけ温度を下げた。
近すぎて、焦点が合わなかった。
「嫌だから?」
「ん、」
「気持ちいいから?」
「たちば、ん」
少しだけ顎を上げるようにして、詩乃が答えようと口を開くたびに、唇を塞がれた。
橘の囁くような声だけが、耳元で温度を残していた。
「…ごめん」
ふと、唇が離れた。
橘は黙って詩乃を見つめて、指先で詩乃の目尻に浮かんでいた涙を拭った。
少しだけ冷たい指が、優しい手つきで去っていった。
お互いの吐息だけが、熱かった。
橘のごめんの意味が分からなくて、詩乃も何も言えなかった。
「…送るね」
橘がそう言って、詩乃の腕を掴んで優しくベンチから立たせた。
パンプスの踵が、アスファルトを擦った。
詩乃が立つとすぐに、掴まれていた腕は離された。
そのまま踵を返して歩いていく橘に、詩乃は黙って着いて行った。
途中何度か振り返って詩乃を確認していた橘だが、言葉は何も発さなかった。
黙って車に乗り込み、黙って車を発進させた。
帰りの車内でも、どちらも何も話さなかった。
行きより長く感じる道のりに、車内の空気が、どこかに消えてしまったようだった。
車内を満たしていたはずの音楽も、今はただのノイズにしか聞こえない。
密閉された空間の中で、隣に座る橘の気配だけが、質量を持って詩乃を押し潰そうとしてくるように感じる。
フロントガラスの向こうに流れる街灯の列が、切り裂かれたフィルムのように点滅しては消えていく。
「おやすみ」
「…おやすみなさい」
詩乃のマンションの前に車を停めると、橘は一言だけそう言った。
詩乃が車を降りると、橘の車はゆっくりと闇に消えていった。
どうしたら良かったのか、分からなかった。
でも、私が、くだらない嘘をついたから良くなかったんだろう。そう思うと、涙が今度こそ零れ落ちた。詩乃はそれを自分で拭って、家に戻った。


