それからまた一週間ほど経った。
橘からの連絡は、今まで通り来ることはなかったし、顔を合わせることも少なかった。一度だけフロアで見かけたが、詩乃はすぐに視線を逸らした。
橘は、今の私をどう思っているんだろう。
キスをして、途中で逃げ出した女。もうセフレにだってしたくはないだろう。面倒臭い女と思われる材料はすべて揃っているような気がして、気持ちは穏やかではない。
『…もしもし』
そんな中、橘から急に電話がかかってきたのは土曜日の二十一時を少し過ぎた頃だった。画面に表示された名前に驚いて、一呼吸置いた後、詩乃はゆっくりと通話ボタンを押した。
『…何してたの?』
『テレビ見てたところ…』
『ふーん…まだ寝ない?』
『…寝ないよ』
前回の電話の記憶を思い出させられる。あの時と同じように、詩乃はソファに座って、足を折りたたんで橘の声を耳元で聞いていた。
『…ドライブでも、行かない?』
『え?…どうしたの、急に』
『……なんか…』
『なに…?』
橘の言葉は歯切れが悪かった。
なんで電話してきたの、面倒だって思ってないの、そう頭に浮かぶ言葉を打ち消して、橘の言葉を待った。
『……会いたいから』
『………なにそれ……』
緊張しているかのように、電話越しの橘の声は固かった。でももしかしたら、機械を通しているからなのかもしれなかった。
『…だめ?』
『た、ちばな、この間のさ、…』
『…うん』
駅で私にキスしたこと、覚えてる?
そう聞けば、きっと答えてくれると思った。でもこの空気の中で、上手く聞ける気がしなかった。今までと同じように、あんまり。と答えられるのも嫌だった。
『…なんでも、ない』
『……迎えに行っていい?』
『…うん』
じゃあ、今から行くね。そう言って、詩乃の返事を待って、切られた。
ずっとトーク画面の下の方に埋もれていた橘の名前が、一番上に浮かび上がっていた。目の前で点いているのは、なんでもないバラエティ。
さっきまでノイズにしか聞こえなかったテレビの音が、橘の電話一本で急に鮮やかに聞こえてくる。
自分でも呆れるほど、私はこの男に振り回されている。
北海道のグルメを紹介している番組の画面から背を向け、詩乃はクローゼットの前に移動した。とりあえず、このゆるい部屋着から着替えなければ。
お風呂に入る前でよかった。髪の毛の巻きも残っているし、化粧は少し直せばいいだろう。
少し迷って、先週の土曜日にも履いていた黒のショートパンツを手に取った。
白の無地のTシャツまでは同じにして、上に羽織るものだけ、デニムの長袖にした。
靴下を履き替えて、黒のローファーを履いた。
私は忘れていない。
橘があの時のキスを覚えていなくても、思い出せばいいのだ、この服で。
「…車で待っててくれても良かったのに」
「……そうだよね」
連絡を受けてエントランスに降りていくと、橘がドアの向こうに立っていた。詩乃を見つけて手を上げた。
「…来てくんなかったら、どうしよって思って」
「……なんで…」
「ごめん、意味わかんないよね」
橘はそう言って、詩乃の返事を待たずに車の方へと歩き出した。
白っぽいパンツに、上はぴたりとした黒のTシャツで、シンプルな格好だった。それを見つめながら、橘が停めたという車の方に詩乃も歩き出した。
「空調、大丈夫?」
暑くない?と、エンジンをかけながら橘が言った。
うん、と詩乃は短く言った。
「車、持ってたの?」
「大学の時に、親のお下がりもらってさ。その時はもっと都心から離れてたし駐車場も安かったから結構使ってたけど、こっちに引っ越してからはあんまり」
「駐車場、この辺は高くないの?」
「高いけど俺の実家、京都だから。返しに持っていくのも面倒で、そのまま」
「なるほどね」
何気ない、話さなくても問題ないような内容の会話で、場が繋がっていた。
ゆるいスピードで右手でハンドルを持ちながら、かかっている音楽に合わせてか、たまに指先がリズムを叩く。
その動作も、それを取り巻く空気も、橘がしているというだけで様になっている。
「…なんで黙ってるの」
「……橘だって、黙ってるじゃん」
「…そっか」
スマホ越しではあんなに硬く響いた橘の声が、車内の狭い空間では、空気を震わせるような柔らかな低音に変わっていた。
そのまま橘は十分ほど車を走らせた。
どこか目的地があるのかと思って、詩乃は何も聞かずに窓の外に流れる景色を見ていた。ハンドルを叩く指先のリズムや、ウィンカーのカチカチという音が心地よかった。
大きな川に差し掛かったと思ったら、橘はハンドルを切り、河川敷にある広い駐車場に車を停めた。二十四時間開放されているらしい駐車場にはなんの柵もなく、他に車はいなかった。
ここが目的地なのか、と詩乃が思っていると、橘はエンジンを切った。
「ちょっと歩こ」
そういう橘に頷いて、詩乃はドアに手をかけた。
車を出ると、周りに何も建物がないせいか、家を出た時よりも夜風を感じて、羽織を持ってきておいて良かったと思った。
「…来たことあるの?」
「ないけど。こないだテレビで、紫陽花が綺麗に咲いてるって言ってた」
「…どこに?」
「……見えないね」
「…夜だからね」
何、それ。私に紫陽花を見せたかったの?
花なんて興味ない男が、なんでそんな情報を覚えてて、私をここに連れてきたの?
紫陽花どころか、街灯もほとんどない河川敷では何がどこかもわからない。
かろうじて立っている駐車場を照らす街灯の先に伸びている道くらいは、視界に入るだろうか。
詩乃はこの状況がなんだか面白くて、思わず笑みがこぼれた。
橘は気まずいのか、詩乃の方を見ない。
目が合わないことが、橘の気まずさを証明しているようで、詩乃は口元の笑みが抑えられない。
笑ってるでしょ、そう言った橘は、気まずさ故かいつもより歩みが早い。
詩乃はそれに追いつくように隣に並んで、笑ってないよ、と言った。


