自宅へと帰った詩乃は、まず風呂に入った。
髪の毛から香ったのは、橘のいつもの香水と同じ匂いだった。
気づいた瞬間、心臓が跳ねた。
「はぁぁ…っ」
においが移るほど、橘と近づいたのか。
橘の身体が、そんなに自分と密着したのか。
ぬるりと滑る泡が、昨夜の感触を思い出させる気がして思わず、強く、自分の肩を擦りつけた。
橘だって割と、ワインやら焼酎やら飲んでいて、結構酔っていたはずだ。
平日なのに良くないな、と途中で思った記憶がある。
橘も酔って、理性がなくなってそういうことになったんだと、詩乃は心の中で言い聞かせる。
浴槽の水面が小さく揺れて、その波紋がなかなか消えない。
身体は温まっていくのに、気持ちはどんどん冷えていくようだ。
その後は眠る気にはなれなくて、いつもよりゆっくりと時間をかけて準備をした。
着ていたブラウスは、洗濯機の中にくしゃりと放り投げたままだ。
橘が覚えているか、覚えてないか。そんなことは今考えてもしょうがないし、もう済んだことで、どうしようもできない。
それでも頭の中を占めているのはそのことだし、今日の仕事が嫌で嫌でたまらない。
「…今日は早く出勤しよ」
詩乃はそれを振り切るように、さっき帰ってきたばかりの家を出た。
別に毎日、橘と顔を合わせていたわけでは無いが、こういう時に限って橘をよく見るのは何故なのか。
部署が違うと言っても、詩乃の部署があるフロアは人の出入りが多い。
廊下に橘がチラリと見える度に心臓の鼓動は早くなるし、そちらに目線をやってしまう自分も嫌なのに。
橘が、綺麗さっぱり忘れているといい。
一緒に飲んだ記憶すら、なくしてて欲しい。
ふとした瞬間、目が合った気がした。
心臓が跳ねて、慌てて視線を落とした。
お昼休み、オフィスの一階にあるコンビニでは軽快な音楽が流れていて、誰もそれを気に留めたりはしない。
「今日はコンビニなの?」
背後からいきなり聞こえた声に、詩乃の肩がびくりと跳ねた。
詩乃が手に取ろうとしていたミックス野菜サラダが手から滑り落ちて、元あった棚の上で、小さな音が鳴って、レタスが揺れた。
声だけで橘だと分かる。それでも、詩乃は後ろを振り向けない。
「た、ちばな」
「俺もサラダ食べようかな」
振り向かない詩乃の横に、橘は並んだ。
隣から香るのは、今朝ブラウスに移っていたあの匂いだった。
橘の長い指が、詩乃と同じサラダを手に取った。
「昨日も肉食べたもんね」
そう言って橘は、サラダを持ったまま、詩乃の方にゆっくり視線を向けた。
心臓が、いつもよりも激しい音を立てて血を送り出しているんじゃないだろうか。そんな馬鹿みたいな考えが頭に浮かぶ時点で、自分の動揺を自覚する。
そりゃ、確かに、橘がホテルでの相手を忘れていたとしても、イタリアンバルに行ったことを忘れるはずがないことくらい分かってはいる。
「そうだった、ね…」
相変わらず詩乃の目線はサラダから動かせない。
透明な容器の中で動かないレタスとコーンの配置を、覚えてしまいそうだ。
どのサラダにしようか、一生懸命選んでいると、橘は思ってくれないだろうか。
「あのさ、新田」
二人の間の沈黙を破るかのように、橘が口をゆっくりと開いた。
詩乃は咄嗟に、目の前のプラスチックの容器を手に取って、橘の言葉を遮った。
「橘、ごめん、また今度」
待ってるから、と後ろを振り返って詩乃は言った。
振り返った先で、一緒にコンビニに降りてきた、同じ部署で同期の、春田《はるた》 真菜《まな》をちょうど見つけ、目線で知らせた。
真菜はちょうど詩乃たちを見ていたのか、橘の視線を受けてニコリと口角を上げた。
「じゃあね」
普段のような口調で、声のトーンを出せていただろうか。
詩乃は真菜の元に駆け寄った。
「あれ?サラダだけでいいの?」
「あ、うん、今日は、ダイエット」
「今日はって何よ」
お昼はしっかりお米も食べたいところだったが、こうなってしまってはもう引込みがつかない。机の中に常備してあるお菓子でもつまもう。
そう思いながら、詩乃は決して橘の方を向かなかった。
きっと、橘だって記憶が曖昧に違いない。
探ってくるように声をかけてきたし、もししっかり覚えていたら、あんなふうにコンビニで声をかけてくるはずがない。
マイバッグに入った軽いサラダを揺らしながら、エレベーターの中でそう結論づける。
橘は、嫌になるくらい顔がいい。
イケメンだと騒がれているのも知っているし、同期で何人かは橘を狙っている女子もいるはずだ。
でも詩乃は、会社で恋愛関係に発展するのは嫌だと思っていたし、橘もそう言っていた。だから安心して誘えたし、誘われていた。
だから、橘だって意図的ではないんだろう、本当に酒に酔って、魔が差しただけだ。
それならば、曖昧にしておくのが一番いいのではないか。
橘もそう思ってくれているはずだと思い込んで、必死に頭からその思考を除いて、仕事に没頭していたのに。
「新田、ちょっと」
逃げるようにオフィスを出た十九時、エレベーターホールの冷たい静寂を破って、熱い手が、詩乃の手首を掴んだ。
逃がさないという意思を感じるほどの強い力に、詩乃の足が止まる。
その温度が、皮膚越しに一気に広がる。
やっぱ、そうなるよね。
詩乃は心の中で呟いて、覚悟を決めた。


