「に、った」
「…橘、ありがと」
「え、あ、うん」
「…もうちょっと」
「な、んで」
しばらく頭上から動揺する声が降ってきていたけれど、詩乃はそのまま橘の胸板に頬を付けていた。うっすらと感じる体温が心地いい。
手の行き場がなくて、詩乃は自分が羽織っている黒のカーディガンの裾を掴んでいた。
「……どうしたの、ほんとに」
「…何もだよ」
何も、ってことはなくない?と橘は言って、少し戸惑った仕草の後、ゆっくりと詩乃の背中に手を回した。
さっきよりも身体が密着して、軸を橘に委ねた詩乃の背中が少しだけ反った。
自分がすっぽりと橘の中に入ってしまったような感覚が心地よかった。
ちゃんと抱きしめられたことなんて、なかったな。
詩乃は橘の胸に顔を預けながら、ぼんやりと考えた。
「…新田、小さいね」
「……橘がおっきいんだよ」
「誰からも新田のこと見えてないよ、今」
「橘がただ壁に向かってる人に見えるんじゃない」
「俺、不審者じゃん」
さっきまで焦っていたのに、いつもの調子を取り戻したかのように、冗談混じりで言った橘の言葉に詩乃は笑みが溢れた。
「いいじゃん不審者」
「何がいいの。新田の足は見えてるんだから、カップルがいちゃついてるとでも思われてるよ」
あまりにも橘がなんてことないかのようにそう言うから、少しだけ詩乃はそこを突いてみたくなった。
「カップルじゃないけど?」
「…そう見えるでしょっていう話だよ」
「ふ、そうだね」
詩乃は橘の身体にさっきよりも体重をかけた。
それに気づいたのか、橘も同じようにして詩乃に軽く体重をかけてきた。
こんなふうに外で抱きしめられて、いい年した大人二人が何やってるんだろう。そう思って、詩乃は橘の胸元に顔を擦り付けた。
「…甘えてんの?」
「んー?」
「やっぱり怖かったの?さっき」
「んー」
「もしかしてナンパついて行った事とかあるの?」
「んー」
「ていうか、こないだも皆で飲んだ時も思ったけど、何この短い服」
「え?ショートパンツだけど」
「丈の話をしてる、俺は」
橘がため息まじりでそう言った。
詩乃の今日の服は、白のトップスにカーディガン、黒い膝上のショートパンツにローファーだ。
詩乃は橘の顔が見たくなって手を離し、一歩下がって柱にもたれた。
橘の腕もゆっくりと離れた。
橘は不思議そうに詩乃を見つめる。
詩乃はそんな橘を、じっと見つめた。
「…なに、その顔」
「どんな顔?」
「…甘えてんの?上目遣いして」
「……可愛い?」
詩乃がそう聞いたのは、ちょっとしたいたずら心だった。
橘は少しだけ面食らったような、戸惑ったような表情を一瞬見せた後、静かに笑みを漏らした。
薄い唇がゆっくりと弧を描いて、詩乃の耳元に移動した。
「かわいい」
「っん」
その音が耳元に届いて、その後すぐに橘の唇がゆっくりと詩乃の唇に移動した。
一瞬だけ触れた唇がすぐに離れて、微かな音を立てて離れていった。
ここは駅で、たまに人が通る場所で、遠くに雑踏が聞こえてくる。
最初は掠れた音だった。
唇が離れると、橘と目があった。
「たちば、なっ」
詩乃が呼びかけた名前は、途中でかき消された。
急くように再び降ってきた唇に、否応なしに声を塞がれた。
「っん、」
きつく抱きしめられて、詩乃の身体はさっきよりも反る。
橘のもう片方の手は詩乃の顎に当てられていて、ぐいと上を向かされている。
丁寧に巻いた髪の先が、橘の腕が動くたびに、詩乃の首筋をくすぐる。
顎を押し上げる橘の指先の強引さに、肺の空気が薄くなっていく。
遠くで響く駅のアナウンスが、自分たちの重なり合う呼吸音にかき消されて、世界がこの狭い通路だけになったみたいだった。
「……っ」
橘の力の強さに、自分では上手くバランスが取れなくなる。
腰を後ろに引くも、橘の体幹か、それとも意思か、何かがそれを許してくれない。
手の中でいつの間にか握っていた橘の青いシャツが、くしゃりと歪んでいる。
「…いやじゃ、ないの」
橘がポツリとそう言った。
それなのに、返事をする間も与えられていなかった。
顔の角度を変え、首の角度を変え、舌の向きを変え、口元を寄せているだけのそれが、すごく恥ずかしくていやらしくて、でももっとしてほしい。
「いや、じゃ、ない」
合間に必死に言葉を紡いだ。
橘がそれをしっかり聞いていたかどうかは分からない。
唇が離れて一瞬の間があった後、橘の唇が、詩乃のそれから首筋に移動した。
「っ」
詩乃の身体が固くなる。橘はそれが伝わったかのように、視線を詩乃に移した。
さっきまで詩乃の頭の上から見下ろすようにしていた橘の顔が、首元から詩乃を射抜くように見つめ、さっきまで触れ合っていた唇を歪ませて、小さい子どもを諭すかのように静かに言った。
「じゃあ、もう拒否んないで」
「んっ」
そうしてまた唇が触れた。息がしにくくなって、涙が溢れた。
深くなっていくそれに委ねていくのが、今自分が一番望んでいるかのように思えた。
もう、どうでもいいかもしれない。
細かいことも、友達だとか同期だとか、何回したとか考えるのをやめようか。
目の前の橘がくれるものだけに夢中になっていれば、それが楽かもしれない。
みっともなくて、だらしなくて、欲望に忠実な、お酒の力を借りない状態の、私たち——…。
「やだっ」
思考と気持ちよさに浸っていた詩乃から、鋭く漏れた声は、少しだけその空間に響いた。
詩乃は腕を伸ばして橘を押した。すんなり離れたその身体は、詩乃と同じように火照っていた。
「ど、うしたの」
「橘、お酒飲んでるよね?」
「え?」
「ハシケンと飲んでたって、言ってたよね?」
「え、うん…」
また、覚えてないふりをして、橘も覚えていなくて、それでこれ以上傷つきたくない。そんな気持ちは真っ平だ。
「お酒飲んでる橘とは会わない!」
だってもう、忘れたくない、橘としたこと。
めちゃくちゃにして、翻弄して、溺れさせて、でも溺れているのは自分だけ。
浮き上がってもいいのか、それすら水中から伺って、地上から見下ろすように接してくる橘の顔色を伺わなきゃいけない。
詩乃は橘がいつの間にか掴んでいた腕を振り解いて、そこから小走りで逃げた。
白いタイルに囲まれた通路に、自分の影が映った。
必死に走る自分の影が、無機質な白いタイルを乱暴に横切っていく。
そう思いながらも、まだもう一つの影を期待する私が、この建物の中で、一番滑稽で愚かに違いない。


