そこからしばらく、橘と連絡を取ることはなかった。
今までも週一くらいでは顔を合わせていたり、何気ないメッセージが送られてくることはあったのに、会社でもまったく見かけなかった。
詩乃はなんとなく、弁当を作るのをやめてコンビニに昼食を買いに行ってみても、会うことはなかった。会ってどうしたかったんだと、後から思った。
結局一週間、何も起こらなかった。
休日に一人でいたくなくて、真菜を誘ったが、彼氏との約束があるとのことで断られたので、大学の友達に声をかけて遊びに出ていた。
スマホが振動するたびに、脳裏に浮かぶのは橘の顔だ。
あんなに気まずく別れておいて、何かあるはずなどないのに。頭でわかってはいても、通知が来るたびに落胆した気持ちになった。
「お姉さん、一人?」
土曜日、友達と別れたのは二十時過ぎだった。
早め解散になって電車に乗ったものの、ロールタイプの付箋がなくなったことを思い出して、いつもの駅で降りた。
「いえ…」
橘とのことがなくても、最寄りから一駅のこの駅はメジャーなショップがコンパクトにまとまっていて生活にとても便利だった。その代わり、居酒屋やホテルも多いのでこうして声をかけられることも珍しくはない。
「飲んでたの?俺ともどう?」
「んー」
「奢るよ!ね!」
「んー」
適当に断ろう、そう思っていたはずなのに、どうでもいいかという気持ちが薄っすら出てくる。そもそも、橘なんて顔がいい男、私には分不相応だったんだろう。
「とりあえず行こうか」
「や、すいません…」
肩に手を置かれた瞬間、嫌悪感が一気に広がる。
すぐに断らなかったせいか、普段のナンパより引き下がってはくれない。
「すぐそこにある大衆店なら良いでしょ!」
「あの、」
「大丈夫何もしないから!」
「ごめんなさい」
「お姉さん可愛いから飲みたいだけなんだってー」
男は押せそうな雰囲気を感じたのか、詩乃の腰に手を回そうと距離を縮めてくる。
詩乃がその身体を押し戻そうとすると、後ろからするりと伸びてきた手が詩乃の肩を掴んだ。
強い力で肩を掴まれ、思わず首をすくめると、身体の向きを急激に変えられて足元がふらついた。
「なにしてんの」
真剣な顔をした橘が、さっきまで詩乃の目の前にいた男を威圧していた。
その言葉は詩乃に向けた言葉のように見えるのに、声色と視線は男に向いていた。
男は曖昧な笑みを浮かべて去っていった。橘は詩乃を振り返り、掴んでいた肩を離した。
「なに相手してんの、びっくりするんだけど」
「ごめん…」
橘は爽やかなブルーのシャツに、黒のパンツとチャコールグレーのキャップを被っていた。前髪を掻き上げるようにしてキャップを被り直し、詩乃の背中を駅の壁の方へと軽く押した。
「人、来るから」
「あ、ごめん」
橘は、あたりを見まわした。
改札まで少し距離がある駅の通路には、いろんな種類の店が並んでいる。
休みなのかもう閉店なのか、シャッターが閉まっている喫茶店の前に押しやるようにして詩乃を移動させると、ふう、とため息をひとつこぼした。
駅ビルの明るい照明と、家路を急ぐ人々の足音。ここだけが、そんな喧騒から切り離された空間に思えてくる。
冷え切ったタイルの床から伝わる冷気と、目の前に立つ橘のシャツから漂う微かな夜風の匂い。
「たまたま見かけただけだけど」
「…ありがとう」
詩乃の中に湧き上がってきた気持ちは、言葉にできなかった。それでもこのまま離れるのはなんだか嫌だった。
逃がしたくない一心で、詩乃は、橘のブルーのシャツの裾を掴んだ。
詩乃の手のひらの中でくしゃりと軽く皺になった。
思ったよりも柔らかい素材だった。
「新田なら、ナンパなんか適当にあしらえるでしょ」
「…うん」
「隙があるんじゃないの?ゆっくり歩いてたら狙われるよ」
「……」
なにも言わない詩乃に、説教をするかのように橘は不満げな顔で話し続けた。
橘の正論に何も言えず詩乃は黙っていると、橘は言葉を止めて、詩乃の顔を覗き込むようにして見つめた。
「…そんな怖かった?」
「…いや…」
「ナンパくらい、されたことあるでしょ?」
「……うん」
「ハシケンと飲んでたんだよ。明日予定があるらしくて早め解散になって、そう言えばスーツ用の靴下買わないとと思ってここ来て、改札出たら新田がいて」
「……」
詩乃が黙り込んだので、橘は途中で言葉を止めた。
そして、どうしたの?と、再度覗き込んだ。
高い身長を折りたたむようにして、橘は詩乃と目線を合わせる。
どうしたのと聞かれても、今自分の中に渦巻いている感情の正体があまりよく分からない。
会えて嬉しい気持ちもあれば、最後をあれだけ気まずい空間にしてしまった自分への罪悪感もあって、身体を重ねたことも一緒になって思い出してしまっている。
「…おいで」
「た、ちばな」
橘は、詩乃の手首を取って歩き出した。
駅の中心部とは反対側へ歩き、しばらく進むと、誰も通らなさそうな路地に近い通路に出た。
「ほんとに、どうした?なんかされた?」
「…や、」
「怖かった?」
さっきの男のことなんて一ミリも詩乃の頭には残っていない。
「え、」
背中に当たるコンクリートの壁は、芯まで冷え切っていて硬い。
けれど、目の前で自分を閉じ込めるように立つ橘は、心配そうな顔をしている。
逃げ場のない冷たさと、求めてしまう熱の間で、詩乃の思考はぐちゃぐちゃにかき混ぜられた。
詩乃は一歩前に出て、橘の胸元に顔を埋める。
香水と柔軟剤が混ざった、いつもの橘の匂いが肺いっぱいに広がっていく。
元々そんなに空いていなかった距離はゼロになり、詩乃の頬には橘の胸板が擦れる。
ブルーのシャツが、差し込まない光のせいで深く色を変えていた。
しばらく、このままでいさせて。
その言葉も、口からは出てこなかった。代わりに頬を自分で撫でるようにして、橘の胸元に擦り寄った。
柔らかい素材のシャツが、心地よかった。


