今夜は君の夜屑

 
 
 
 
「シャワー、浴びる?」

橘の声は、遠慮がちだった。
いい、と詩乃は短く返して、布団に潜り込む。

「…新田、あのさ、」
「ごめん」

詩乃は橘の言葉を遮るように言った。
先に橘に謝られるのが嫌だ、その一心だった。

昨日の意思も記憶も、熱も、全てはっきり覚えている。
それを、一人だけで抱えることが怖かった。

「…なんで、謝るの」
「……」

じゃあ、謝らなくてよかったの?
合意ではあった、後悔はしていない。けれど、お互い、理性はなかった。

「……じゃあ、帰る?」
「…橘、シャワーは?」
「…家で、入る」

三回、橘とホテルに来た中で、一番気まずい空気だった。
それを作っているのは確実に詩乃で、それをきっと橘が気遣っている。

「…俺、あっちで着替えてくるね」

橘がそう言って、詩乃の返事を待たずにベッドから降りた。
ごそごそと布が擦れる音がして、橘の裸足が床を叩く。
ぺたり、ぺたりという素足の音。きっと洗面所の方に向かっていった橘はドアを閉めた。

バタン、という重い金属音が部屋に響き、橘の気配が遮断された。
途端に、広すぎるキングサイズのベッドに一人きりで取り残された事実が寂しくなる。自分で追い出すような言葉をかけたというのに。

橘がいた場所のシーツには微かな凹みと、体温が残っている。それを見つめて、嘘を重ねる自分の喉の奥の乾燥が、少しだけ刺した。

橘が忘れているのをいいことに、嘘をついて、昨夜の記憶を自分だけのものにした。その温度と匂いが残るベッドの中で、思い出すだけで胸が締まる。


橘が好きなわけじゃ、ない。好きじゃ、ない。












今回はとてもじゃないけどモーニングでも、という雰囲気ではなかった。
ホテルを出ると、前回と同じように眩しいくらいの太陽が照りつけていた。

湿り気を帯びた六月の熱が、容赦なく肌を包み込んだ。
昨夜とは違う、吐き気がするほど不透明な熱気。

「あ…のさ、新田、」
「ごめん」
「だから、…なんで、謝るの」
「…だって、もうさ、」

少し冷静になると、記憶がしっかりあるだけに昨夜の自分の欲望が恥ずかしさとなって襲ってくる。橘を求めた意思と熱をはっきりと覚えているのに、今後も友達として、同期としてやっていけるのだろうか。

橘は、新田、と呼んで、それを望んでいるというのに。
だって橘は覚えていない、それに、自分が橘を求めたという事実を思い出されるのが怖い。


「…なに」
「三回目、だよ?」
「……そうだね」

本当は四回目だと、訂正してくれたらいいと思った最後の願いだった。
けれど橘は三回目だと思ったままだ。だからもう、この関係は終わりだ。

「…家まで、歩いて帰る」

詩乃の家までは一駅の距離だ、歩けないことはない。
このまま一緒に橘と駅まで行って、電車を待つ時間と沈黙に耐えられる気がしなかった詩乃は、そう言って、足を止めた。

「…わかった、気をつけてね」

橘の顔を見られなかったので、どんな表情をしていたかは分からなかった。
いつもと変わらない声に聞こえた。

橘はそう言って、足を進めた。
詩乃は反対方向に身体を向けて、歩き出した。


ごめん、橘。もう、ダメだよ。

一回知ったらまた次欲しくなって、そうしてもう、きっと終わりがない。
橘って麻薬みたいだな、と灰色のコンクリートが流れていくのを見ながら詩乃は思う。

昨日の記憶で、一番感じたのは、幸福感だった。
味を占めてしまったから、きっとまたしたくなる。きっとまた詩乃は求めてしまう。そしていつかそれを、橘が覚えている時がきたら、もう二度と友達には戻れない。それが一番怖い。

詩乃の視界がじわりと滲む。
歩くなんて、言わなきゃ良かった。

六月だというのに、じりじりと焼けるような太陽とアスファルトからの熱がまとわりついて離れてくれない。アスファルトから立ち昇る陽炎が、自分の足元をぐらぐらと揺らし、昨夜の嘘がドロリと溶け出していくようだ。

家に着く頃には、きっと汗だくになっている。
シャワーを浴びなくて良かった、と心で思った後、自嘲的な笑みが無意識に溢れた。

シャワーを浴びないことだけが、昨日から今日までできっと正解だった。他は全て間違えた。

仕事用のブラウスの襟が風を受けて、ふわりと揺れる。
ふくらはぎまである、アイボリーのタイトスカートの裾が足にまとわりつき、焦る気持ちとは裏腹に、歩幅は数センチ単位で制限される。

コンクリートを叩くパンプスの音が、逃げられない現状をカウントしているみたいで、ひどく耳障りだった。
こないだの夜は、スニーカーで楽だったのにな。

詩乃は頬に流れていく涙を拭いながら、橘の最寄り駅とは反対方向に足を進めた。