金曜日のホテルは満室だった。
フロントに声をかけ、待合室の小さなソファに倒れ込むように座った。
古い型のテレビだけが、そこに置かれている。他に視線の行き場はない。
無理やりそこに視線を集中する詩乃の肩に、橘の腕が回る。
その腕の重みで、詩乃は自分の心臓の音を自覚する。
「詩乃」
小さなテレビの画面を見つめる詩乃を煽るかのように、橘は詩乃の耳に唇を寄せる。
首筋に、耳に、唇の気配が擦れていく。
フロントとの距離が近いのに、という不安と焦りがぞわりと広がり、詩乃は橘に顔を向けた。
ゆっくりと近づいてきた唇が、逃げ場を塞ぐように重なった。
「んっ」
「詩乃、」
耳元で、橘の熱い吐息が肌をなぞっていく。
深く重なる唇の熱に、脳そのものが眩暈を起こしたかのような錯覚に陥る。
触れられている場所から、自分の輪郭が溶けていくみたいだった。
射抜くような橘の視線に、逃げ場を失ったように指先が竦む。
怖い。詩乃がそう思った瞬間、コンコンと個室のドアを叩く音がした。
静かな部屋に響くその音に、少しだけ詩乃の肩が震える。
するりと詩乃の肩から腕を抜いた橘が、膝の上に置かれていた詩乃の腕を取って立ち上がった。
橘はタッチパネルを操作し、カードキーを受け取った。
エレベーターには、古臭い、この場に似つかわしくないポップな音楽が流れている。
部屋に入ると、橘は詩乃の手を取ったまま、部屋の中央にあるベッドまで歩みを進めた。
「たち、ばな」
そして、優しく詩乃の肩を押した。
詩乃は、呆気なく、背中から、深い海に沈むような感覚でベッドに倒れ込んだ。
シーツが重みで沈み込み、その圧迫感に、心臓が耳元で鳴り止まなくなる。
景色がスローモーションになったかのようだ。
糊のきいたシーツが、重みに抗うように小さく乾いた音を立てる。
「ねえ、いっぱいキスしていい?」
「っん、」
疑問系で聞いたくせに、答えは求めていないようだった。
さっきみたいに、かわす暇すら、とぼける間すら与えられなかった。
真っ逆さまに、落ちていくようだった。
お互いの限界がわかって、もうどちらのものなのか、どこまでか境界線なのかも分からなくなっていた。
先のことなど考えていられない。
三回目だなんて思えない。
全てが初めてのような感覚で、途切れ途切れで思い出していた記憶よりも、ずっと熱くて湿っぽくて、余裕がなかった。
橘、多分だけどさ、これを忘れるには、結構な努力が必要なんじゃないかな。
そのまま眠ってしまっていたようだった。
アジアンテイストでまとめられた内装のカーテンの隙間からは、まだ太陽光は差していなかった。きっと、数時間しか経っていない。
気絶するように、落ちたように眠っていたはずなのに、意識が戻ると、また橘の気配が覆いかぶさる。
寝ぼけた頭でそれを受け止めながら、詩乃はぼんやりと思う。
いいのかな、これ、四回目になるんじゃないのかな。
「っ」
誰に対しての問いかけか、自問自答か。そんなことを考える余裕はすぐになくなった。
「し、の」
きっと橘は、私と同じように欲望に忠実で、調子が良くて、ずるい人間だ。
それはもうきっとお互いが分かっている。
全て終わって、力が抜けていくようだった。
それでも、これを、忘れなければいけない。
きっとまた数時間が経っていた。カーテンからは今度こそ太陽の光が漏れていた。詩乃は布団を鼻の上まで引っ張り上げた。橘の顔は見ない。
「…おはよう」
「……おはよ」
気まずそうな声だなって、聞いただけで分かるから。
「…新田、あの、」
「……」
呼び方が苗字に戻っているのだって、当然だ。分かっている。
別に傷ついていないし、橘が覚えていることを期待なんてしていないから。
「…覚えて、る?」
「……覚えてない」
カサついた唇からこぼれたその嘘は、空気を吸って驚くほど軽く響いた。
橘の声を耳に入れたくなくて、詩乃は目元まで布団で覆った。
視界を覆う布団の裏側の暗闇に、橘の指先の感触と、名前を呼ばれた時の声の残響が、焼き付いて離れない。
「…そっか」
「……橘は?」
詩乃って呼んでくれてたら、違ったかもしれないのになんて、もう遅い。
覚えていないと言うであろう橘の言葉に、そうだよね、と言う準備は、もうできている。
「…俺も、あんまり」
「……そうだよね」


