「新田、なんか頼む?」
「…んー」
詩乃の空いたグラスを見て、橘がメニューを差し出した。
もうやめておいた方がいいことくらい、頭の中では分かっていた。
「やめとく?」
「んー、どうしようかな…」
「…俺と半分こする?」
いつもなら頼むのをやめていた。もう一杯くらいならいいか、と思ったのは、今一緒に飲んでいるのが橘だからか。
橘がそう言ったので、メニューから橘へと視線を移した。半分こ、なんて可愛らしい単語と提案、今までしたことないくせに。
「…ふ、」
それがなぜだか面白くて、詩乃は軽く笑みをこぼした。
狭い机に肘をついて前のめりになっている二人の顔の距離は、机を挟んでいるはずなのに近い。
「……なんで笑ったの」
「べつに、なんとなく」
「…可愛い顔して」
そう言って、橘が首を傾げた。同じ位置に頭があるのに、見上げるようにして詩乃に視線を送る。自分の顔が整っていることを分かっていての仕草なら、タチが悪い男だと詩乃は思う。
「…なに、それ」
「……しーの、ちゃん」
ちゃん付けされることは、多分慣れていた方だった。
だって、橋立や吉野などの、サークルのメンバーはそう呼んでいたから。
それなのに、橘にそう呼ばれると心臓が早鐘を打つかのように大きく身体に響いていく。
「…なに、まひろ」
「……ねえ」
橘は詩乃からゆっくり視線を外して、通りかかった店員にワインを一杯、グラスで頼んだ。詩乃が最初に頼んだ、飲みやすいものだった。
テーブルに視線を送ると、頬杖をつく橘の前には、チーズや生ハムや、いくつかの前菜が少しだけ残っていた。けれどそれを口に入れる気にはならなかった。
「…もう帰る?」
「…いま、何時?」
橘の言葉に、バッグに入れていたスマホを確認しようと視線を移すと、橘が机の上に置いてあった詩乃の手を取った。思わず詩乃は視線を戻す。
「…時間は見ちゃだめ」
「……なんでよ」
そのままするりと腕にあった手を、指先に移動させた。
摘むようにして、橘の長い指が、詩乃の指先を軽く握った。
お酒が入っていて良かったと、詩乃は思う。シラフだったら耐えられない。
最後のワインが机に置かれた。橘がそれに口をつけて、飲んだ。
ワインを飲む橘の、鋭く尖った喉仏が上下に動いて、それがなんだか怖かった。
橘にそれを差し出され、詩乃は受け取るために指先を離そうとしたが、橘がそこに力を込めたので、反対の手で受け取って、一口だけ喉に流した。味はもう分からない。
「…帰んないでよ」
「…どうして」
橘の指が、詩乃の指先から頬に移動した。
確かめるように、詩乃の頬をゆっくりと優しく滑っていく。
頬をゆっくりと上下する中指の背は、先ほどと同じなのに、さっきよりも指が熱を持っている。
「帰らないでほしいから」
「…なに、それ」
もう、どうなったって良いんじゃないか。
「詩乃」
「…」
橘がゆっくりと指を頬から離し、名前を呼んだ。
全身の血液が、ゆっくりと音を立てて巡っていくようだ。
「行こっか」
橘のこと、好きなんかじゃない。
でも、会いたいと思うし、会社で姿を探してしまう。
「…どこに?」
「わかってる、くせに」
言いようのない焦燥感が詩乃の全身を巡る。
橘は椅子を引いて立ち上がった。
テーブルの上の札を取って、カウンターに向かう足取りは真っ直ぐで、詩乃にはひどく意地悪に見えた。
でも詩乃もそうだった。だから見ないふりをした。
ソファ席から立ち上がって、バッグを持って、橘を追った。
最後に頼んだワインは、一口ずつしか飲まれていなかった。
「いくらだった?」
「ん、いいよ」
「じゃあ、二軒目で払うよ」
支払いを終えていた橘の隣に立って、詩乃はそう言った。
その言葉にスマホを仕舞った橘は、少しだけ眉を顰めて詩乃の手を取った。
ありがとうございました、という店員の言葉に背を向けて、狭い入り口を手を繋いで出た。
「…焦らすね」
居酒屋がたくさん集まる今のエリアから少し歩いたところには、ホテル街があることくらい知っている。だって、数週間前にそこで目覚めたのだから。
「なんのこと」
橘の言葉に、詩乃は言い返した。
店の前で、繋がれた手はそのまま。通りすがる人々は、なんの目線も向けてこない。みな自分のことだけで精一杯で、それがとても心地いい。
「行こっか?」
橘は握っている詩乃の手に力を込めた。詩乃は何も言わずにそれを握り返した。
肯定として捉えてもらって構わなかったし、橘はきっとその通りに受け取った。
これはお酒のせいで、流された。
橘だって、きっとそうだ。
明日の朝、もしこの記憶が残っていても、覚えていないふりをすればいい。
だってもう、二回も覚えていない。それが一回くらい増えたって構わない。
忘れたふりも、記憶がないふりも、きっと私たちは得意だから。
「詩乃」
熱を含んだ瞳で自分の名前を呼ぶ橘が、欲しい。
私を欲しがるこの男が、私も欲しい。
夜の街灯の下、橘の長い指が、詩乃の指の間をこじ開けるようにして深く絡み合った。逃げ場のない密着感と、混ざり合う手汗の滑らかな感触。
湿度も温度も共有して、それがとても気持ちよかった。
そのまま一番近くのホテルに雪崩れ込んだ私たちは、その瞬間だけはお互いに夢中だったに違いない。


