今夜は君の夜屑

 
 
 
 
「ここ」
「へぇ」

マンションを指差すも、繋がれた手は離れない。
橘は建物を見上げて、こぼすように呟いた。その表情からは何も読み取れない。

「酔ってる?」
「だから、酔ってないって」
「部屋まで見送ろうか?」

てっきりここまでだと思っていたのに、部屋までなどと言い出すものだから、詩乃の口から言葉が漏れてしまっただけかもしれない。

「…しないよ?」

何が、なんて言わなくても伝わるだろう。
詩乃の言葉に、隣に立つ橘からは何の動揺も感情も読めない。
橘は、マンションを見上げていた視線を、詩乃に移した。

「そんなんじゃないよ」
「…ふーん」

風が吹いてふわりと動く前髪の奥から、大きな目が真っ直ぐに詩乃を射抜くように見つめていた。

マンションの前に埋めてある植え込みが音を鳴らし、エントランスのオレンジの光がやけに明るかった。


「そうやって」
「ん?」

自分が何を言おうとしているのか分からない。
やっぱり、酔っているのかもしれない。

「誰にでもそういうこと、してるんじゃないの?」
「……」
「だから、私とも…そうなっちゃったんじゃないの」

繋いだ手のひらだけが、じとりと湿度を持っている。
風はからりと乾いていて、自分の白いブラウスの装飾だけを揺らしていく。


「誰にでも、してないよ」
「…」
「あ、信じてないでしょ」
「そりゃね」

橘は、のんびりとした口調だった。
まるで、明日の天気の話でもしているかのようだった。

「怒ってんの?新田」
「別に、怒ってないよ」
「送ったの、嫌だった?」
「そういうんじゃないけど」

詩乃の言葉に、橘が指に力を込めた。それでもその指先が絡まり合うことはない。
それが無性に腹立たしいのは、なぜなのか。

「夜は危ないって思ったから、送っただけだよ」
「…」
「本当に、それだけ」

橘は目線を詩乃から外して、ぼうっとエントランスを見つめた。
その視線の先には何もないのに。


「…新田が、女の子だって知ってるからさ」
「え?」

「誰よりもね」


付け加えられるように、橘が呟いた言葉が流れていった。
遅れて視線が落ちてくる。少し首を傾げて、伏せられるように見つめられたその瞳には、二重の線がくっきりと入っているのが見える。

「…なに、言ってんの」
「……」
「チャラい」
「怒ってんの?」
「怒ってるよ」

なんで私が、こんなにも橘を意識しなきゃいけないんだ。
なんで私と橘の間で、こんな空気になるんだ。

きっと橘は、こういう空気の作り方を心得ているに違いない。この雰囲気に飲まれているのは、詩乃だけだ。


「えー、怒んないでよ」
「むかつく」
「機嫌なおして」
「なにそれ」

これをもし自分が客観的に見ていたら、面倒くさい女だと思うに違いない。
それでも、自分が制御できないのを感じる。
だからもう、この手を離してほしい。そうして月曜日に、何事もなかったように挨拶をしよう。


マンションの前を、誰かが通り過ぎていった。
それにお互い視線を向けて、橘は言った。

「なにもしないよ」

橘は、繋いだ手にぐっと力を入れ、靴の音をコツコツとコンクリートに響かせて歩き出した。
その迷いのない足取りに、詩乃は抗えない重力に引かれるように付いていくしかなかった。

なにもしないって、手を繋ぐことは、何もしないに入らないのか。


「…エントランス、あったかいね」
「……」

オートロックを開けた、エレベーターホールの前で橘は手を離した。
本当に家に上がる気はないようだった。
月曜日、覚えていないふりをする準備は、できている。


「…あのさ、」


橘が、そう言って、身を屈めた。
目の前の光景がゆっくりになって流れていく。

少しだけ斜めに傾いた、橘の顔が近づいてきて、そっと、唇が触れた。

「……」

そのまま数秒、触れていた気がする。
詩乃も橘も、動かなかった。

オレンジ色の照明に照らされた橘の肌が、目の前でやけに鮮明に映る。
触れ合った唇からは、乾いた熱と、わずかに残るお酒の苦い匂いが伝わってきて、詩乃は息を吸うことさえ忘れて固まった。

そうして離れていって、そのまま離せなかった視線の先で、橘は少しだけ笑みを浮かべていた。少しだけ開かれた唇に、つい視線が移る。


「気をつけてね」


誰も呼び出していなかったエレベーターのボタンを橘が押すと、そのまま詩乃の髪に手が潜り込み、頭皮をくしゃりと少し強めに撫でた。

そうして橘は何も言わず、ゆっくりと背中を向けてマンションを出ていった。


エントランスのドアから背中が消えても、詩乃は動けなかった。

誰もいないホールに、エレベーターの到着音が虚しく響く。
開いて、そして閉まった鉄の扉の気配を、背後に感じていた。


これは、どうやって、忘れたらいいの。