段ボールは、まだ部屋の隅で口を開けたままだった。
昨日の夜、もう寝なさいと言われるまで何度ものぞいた箱だ。教科書、タオル、筆箱、前の町で使っていたノート。入っているものは同じなのに、置かれた場所が違うだけで、どれも少しよそよそしく見える。窓の外では、朝から車の音が切れなかった。前の家の近くを通っていた音は、もっと間があった気がする。ここでは細かい音が重なって、途切れずに流れていく。
ぼくは畳んでおいたシャツを持ち上げ、裾を指でならした。白に近い水色。昨日、母が出してきたものだ。たたみ皺が一本、胸のあたりに残っている。それだけで、知らない教室の真ん中に立たされる気がした。
「湊、襟、ちょっと曲がってる」
玄関に下りる前に、母が言った。
もうランドセルを背負いかけていたのに、母はすっと近寄ってきて、シャツの襟をつまむ。右を上げ、左を引いて、肩のあたりを軽く払う。そういう手つきだけは、引っ越しの前と変わらない。
「もう、じっとして。そういうとこ、ほんと昔からなんだから」
「……うん」
返事をすると、母はついでみたいにランドセルの横のポケットをのぞき、ハンカチが入っているのを確かめた。青い縁取りの、なんでもないやつだ。自分で入れたのに、母に見られると急に足りないものがある気がする。
台所では父がマグカップを置く音がした。引っ越してからの父は、前より言葉が少ない。忙しいだけだと思う。段ボールを運ぶときも、家具の場所を決めるときも、必要なことだけ言ってすぐ次のことをしていた。
玄関で靴を履いていると、父が一度だけこっちを見た。
「行ってこい」
低い声で、それだけ言う。母が「初日なんだから、もっとこう、やわらかく」と笑うと、父は苦笑いみたいな顔をして鍵を取った。仕事のついでに途中まで一緒に出るらしい。
外の空気は、まだ少し冷たかった。背中のランドセルは、昨日より重い気がする。中身はほとんど同じはずなのに、知らない学校へ向かうだけで、四角いかたまりが肩にのしかかった。
家の前の道を曲がると、もう前の町とは景色が違う。コンビニが近い。細い道の先にも店の看板が見える。信号待ちの人が多くて、みんな急いでいるように見えた。父は駅へ向かう角で立ち止まり、「まっすぐ行って二つ目を左」とだけ言って去っていく。ぼくはその背中を見送ってから、ランドセルの肩紐を握り直した。
校門の横の桜は、まだ満開には少し早かった。昇降口で上履きに履き替えると、まわりの子たちの服が一度に視界へ入ってきた。赤いパーカー、チェックのスカート、紺のカーディガン、袖のふくらんだブラウス。制服がないだけで、教室は思ったより色が多い。みんなばらばらで、そのぶん、ぼくのシャツやズボンまで見られている気がした。
担任の先生に連れられて教室の前に立つ。黒板の横に出ただけで、四十人くらいの目がまとめてこっちを向いた。
「今日からこのクラスに入る相沢湊くんです。はい、よろしくね」
よろしくね、と先生が先に言ってしまったから、ぼくは小さく頭を下げるだけで済んだ。助かった、と思う。声を出したら、たぶん少し裏返っていた。
窓ぎわの後ろから二番目の席に座る。椅子を引く音がやけに響いた。机の上には、前の子が消しきれなかった鉛筆の跡がうっすら残っている。そういうものを見ているあいだだけ、少し楽だ。
一時間目が始まると、黒板を見ていればいいからまだましだった。けれど休み時間になると、教室の音が急に近くなる。椅子を引く音、走る音、友達どうしの呼び方。ぼくは連絡帳を開いたまま、次に何をすればいいのか少し遅れる。
「図工室、たぶん迷うよ」
横から声がして顔を上げると、短い髪の男の子が机に片手をついていた。距離が近い。人の肩に平気で触れそうな立ち方だ。
「特別棟。廊下のいちばん先じゃなくて、その前で曲がるやつ」
「……ありがとう」
「別に」
言い終わる前に、もうその子は別の友達のほうへ向いていた。その雑さが、かえって助かる。
二時間目のあとの休み時間、教室の後ろに貼られた色紙の花を見て、斜め前の席の女の子が言った。
「それ、かわいいけど、ちょっと押しつけがましいよね」
みんなが「え、そう?」と笑うと、その子は肩をすくめる。
「かわいいのは好き。でも、最初から答えみたいに置かれるのは嫌」
言い方はやわらかいのに、妙に耳に残った。ぼくはその子の横顔より先に、袖口を見ていた。薄いグレーのカーディガンの下から、白いブラウスの端が少しだけのぞいている。膝に置いたハンカチの縁には細いレースがついていた。目立たないのに、見ればわかるくらいの幅だった。
その少し後、視線を上げると、窓ぎわの前のほうの席にいた女の子と目が合った。すぐ逸らされたわけではない。何か言うでもなく、こっちの止まった手元を一拍ぶん見て、それからノートに視線を落とす。その短さだけが、なぜか残った。
一日は長かったけれど、終わってみると朝ほどではなかった。誰とも特別仲良くなったわけじゃない。けれど、完全にひとりだったわけでもない。そのくらいで十分だった。
帰り道、ランドセルは朝より背中に馴染んでいた。通学路の途中で信号に引っかかり、向こう側の歩道をぼんやり見ていたときだった。
女子中学生が三人、並んで立っていた。
紺のブレザー。胸のところで揺れるリボン。膝の上できれいにそろったプリーツスカート。風がひとつ通り抜けただけで、裾が先に動く。折り目に薄い影ができて、歩き出す拍子にまた開く。白い靴下の上でひらいて、すぐ戻る。その動きが目に入った瞬間、胸の奥のどこかが静かに引っぱられた。
もっと小さかったころ。朝の門の前。隣の家の子の制服。えんじ色のチェック。丸い襟。自分より少し下の位置で揺れる裾。顔より先に、いつもそこを見ていた。
――ぼくも、女の子のせいふくが着たい。
言ったあとのことは、ところどころしか覚えていない。母が笑ったこと。困ったみたいな顔をしたこと。はっきり叱られたわけではないのに、そのあと何も言えなくなったこと。それだけが、まだ身体のどこかに残っている。
信号が青になった。中学生たちは先に渡り始め、プリーツの影が人混みの中へまぎれていく。ぼくは少し遅れて歩き出した。ランドセルの肩紐に指をかけたまま、もう片方の手が落ち着かない。シャツの裾をつまみかけて、やめる。
ここには、あのときのぼくを知っている人がいない。
ただの転校生として教室に入って、名前だけ知られて、一日が終わる。昔のことは誰も知らない。そう思った瞬間、自分の中で何かが少しだけ前へ出た。何をするつもりなのか、まだちゃんと言えないくせに、その感覚だけは先にある。
通りの角で、ガラスに夕方の光がひっかかった。
子ども服の店だった。広くはない。けれどショーウィンドウの中に、春物らしいワンピースが二着並んでいる。薄い黄色と、水色。胸元に小さなリボン。スカートの切り替えのところだけ、少しふわっとして見える。奥には白いカーディガンも見えた。
気づくと、歩く速さが落ちていた。
ガラス越しなのに、裾がどれくらい広がるのか気になる。ハンガーから外したら、どんな重さなんだろう。触ったら、どんな手ざわりなんだろう。自分の腕に通したら、どうなるんだろう。
店の前まで来て、足が止まる。
ランドセルが背中で四角く重い。その重さの向こうで、ガラスの中の服だけがやけに軽そうに見えた。誰もぼくを見ていない。信号待ちの人も、自転車で通り過ぎる高校生も、みんな自分の行く先だけを見ている。
なのに、ここで立ち止まっている自分だけが妙に目立っている気がした。
ガラスに、ぼくの姿がうっすら映る。水色のシャツ。黒い半ズボン。四角いランドセル。ショーウィンドウのワンピースの横に、自分のかっこうが重なる。そのちぐはぐさに息が浅くなるのに、目は離れなかった。
ぼくは肩紐を握り直した。手のひらに少し汗がにじんでいる。このまま通り過ぎることもできる。今日はただ見つけただけにして、明日には忘れるふりもできる。
けれど、一歩だけ近づいた。
水色のワンピースは、思っていたより飾りが少なかった。特別高そうにも見えない。ただの子ども服だ。でも、そのただの服から目が離せない。
ここなら、と思った。
それは希望というほど大きくはなかった。ただ、胸の奥の、ずっと奥のほうに小さく灯る感じだった。不安は消えていない。知らない町はまだ知らないままだ。けれど、全部が最初から閉まっているわけじゃないのかもしれない。
ガラスに映った自分の背中には、まだランドセルがある。
その重さを感じたまま、ぼくはもう少しだけ、ショーウィンドウの前に立っていた。
昨日の夜、もう寝なさいと言われるまで何度ものぞいた箱だ。教科書、タオル、筆箱、前の町で使っていたノート。入っているものは同じなのに、置かれた場所が違うだけで、どれも少しよそよそしく見える。窓の外では、朝から車の音が切れなかった。前の家の近くを通っていた音は、もっと間があった気がする。ここでは細かい音が重なって、途切れずに流れていく。
ぼくは畳んでおいたシャツを持ち上げ、裾を指でならした。白に近い水色。昨日、母が出してきたものだ。たたみ皺が一本、胸のあたりに残っている。それだけで、知らない教室の真ん中に立たされる気がした。
「湊、襟、ちょっと曲がってる」
玄関に下りる前に、母が言った。
もうランドセルを背負いかけていたのに、母はすっと近寄ってきて、シャツの襟をつまむ。右を上げ、左を引いて、肩のあたりを軽く払う。そういう手つきだけは、引っ越しの前と変わらない。
「もう、じっとして。そういうとこ、ほんと昔からなんだから」
「……うん」
返事をすると、母はついでみたいにランドセルの横のポケットをのぞき、ハンカチが入っているのを確かめた。青い縁取りの、なんでもないやつだ。自分で入れたのに、母に見られると急に足りないものがある気がする。
台所では父がマグカップを置く音がした。引っ越してからの父は、前より言葉が少ない。忙しいだけだと思う。段ボールを運ぶときも、家具の場所を決めるときも、必要なことだけ言ってすぐ次のことをしていた。
玄関で靴を履いていると、父が一度だけこっちを見た。
「行ってこい」
低い声で、それだけ言う。母が「初日なんだから、もっとこう、やわらかく」と笑うと、父は苦笑いみたいな顔をして鍵を取った。仕事のついでに途中まで一緒に出るらしい。
外の空気は、まだ少し冷たかった。背中のランドセルは、昨日より重い気がする。中身はほとんど同じはずなのに、知らない学校へ向かうだけで、四角いかたまりが肩にのしかかった。
家の前の道を曲がると、もう前の町とは景色が違う。コンビニが近い。細い道の先にも店の看板が見える。信号待ちの人が多くて、みんな急いでいるように見えた。父は駅へ向かう角で立ち止まり、「まっすぐ行って二つ目を左」とだけ言って去っていく。ぼくはその背中を見送ってから、ランドセルの肩紐を握り直した。
校門の横の桜は、まだ満開には少し早かった。昇降口で上履きに履き替えると、まわりの子たちの服が一度に視界へ入ってきた。赤いパーカー、チェックのスカート、紺のカーディガン、袖のふくらんだブラウス。制服がないだけで、教室は思ったより色が多い。みんなばらばらで、そのぶん、ぼくのシャツやズボンまで見られている気がした。
担任の先生に連れられて教室の前に立つ。黒板の横に出ただけで、四十人くらいの目がまとめてこっちを向いた。
「今日からこのクラスに入る相沢湊くんです。はい、よろしくね」
よろしくね、と先生が先に言ってしまったから、ぼくは小さく頭を下げるだけで済んだ。助かった、と思う。声を出したら、たぶん少し裏返っていた。
窓ぎわの後ろから二番目の席に座る。椅子を引く音がやけに響いた。机の上には、前の子が消しきれなかった鉛筆の跡がうっすら残っている。そういうものを見ているあいだだけ、少し楽だ。
一時間目が始まると、黒板を見ていればいいからまだましだった。けれど休み時間になると、教室の音が急に近くなる。椅子を引く音、走る音、友達どうしの呼び方。ぼくは連絡帳を開いたまま、次に何をすればいいのか少し遅れる。
「図工室、たぶん迷うよ」
横から声がして顔を上げると、短い髪の男の子が机に片手をついていた。距離が近い。人の肩に平気で触れそうな立ち方だ。
「特別棟。廊下のいちばん先じゃなくて、その前で曲がるやつ」
「……ありがとう」
「別に」
言い終わる前に、もうその子は別の友達のほうへ向いていた。その雑さが、かえって助かる。
二時間目のあとの休み時間、教室の後ろに貼られた色紙の花を見て、斜め前の席の女の子が言った。
「それ、かわいいけど、ちょっと押しつけがましいよね」
みんなが「え、そう?」と笑うと、その子は肩をすくめる。
「かわいいのは好き。でも、最初から答えみたいに置かれるのは嫌」
言い方はやわらかいのに、妙に耳に残った。ぼくはその子の横顔より先に、袖口を見ていた。薄いグレーのカーディガンの下から、白いブラウスの端が少しだけのぞいている。膝に置いたハンカチの縁には細いレースがついていた。目立たないのに、見ればわかるくらいの幅だった。
その少し後、視線を上げると、窓ぎわの前のほうの席にいた女の子と目が合った。すぐ逸らされたわけではない。何か言うでもなく、こっちの止まった手元を一拍ぶん見て、それからノートに視線を落とす。その短さだけが、なぜか残った。
一日は長かったけれど、終わってみると朝ほどではなかった。誰とも特別仲良くなったわけじゃない。けれど、完全にひとりだったわけでもない。そのくらいで十分だった。
帰り道、ランドセルは朝より背中に馴染んでいた。通学路の途中で信号に引っかかり、向こう側の歩道をぼんやり見ていたときだった。
女子中学生が三人、並んで立っていた。
紺のブレザー。胸のところで揺れるリボン。膝の上できれいにそろったプリーツスカート。風がひとつ通り抜けただけで、裾が先に動く。折り目に薄い影ができて、歩き出す拍子にまた開く。白い靴下の上でひらいて、すぐ戻る。その動きが目に入った瞬間、胸の奥のどこかが静かに引っぱられた。
もっと小さかったころ。朝の門の前。隣の家の子の制服。えんじ色のチェック。丸い襟。自分より少し下の位置で揺れる裾。顔より先に、いつもそこを見ていた。
――ぼくも、女の子のせいふくが着たい。
言ったあとのことは、ところどころしか覚えていない。母が笑ったこと。困ったみたいな顔をしたこと。はっきり叱られたわけではないのに、そのあと何も言えなくなったこと。それだけが、まだ身体のどこかに残っている。
信号が青になった。中学生たちは先に渡り始め、プリーツの影が人混みの中へまぎれていく。ぼくは少し遅れて歩き出した。ランドセルの肩紐に指をかけたまま、もう片方の手が落ち着かない。シャツの裾をつまみかけて、やめる。
ここには、あのときのぼくを知っている人がいない。
ただの転校生として教室に入って、名前だけ知られて、一日が終わる。昔のことは誰も知らない。そう思った瞬間、自分の中で何かが少しだけ前へ出た。何をするつもりなのか、まだちゃんと言えないくせに、その感覚だけは先にある。
通りの角で、ガラスに夕方の光がひっかかった。
子ども服の店だった。広くはない。けれどショーウィンドウの中に、春物らしいワンピースが二着並んでいる。薄い黄色と、水色。胸元に小さなリボン。スカートの切り替えのところだけ、少しふわっとして見える。奥には白いカーディガンも見えた。
気づくと、歩く速さが落ちていた。
ガラス越しなのに、裾がどれくらい広がるのか気になる。ハンガーから外したら、どんな重さなんだろう。触ったら、どんな手ざわりなんだろう。自分の腕に通したら、どうなるんだろう。
店の前まで来て、足が止まる。
ランドセルが背中で四角く重い。その重さの向こうで、ガラスの中の服だけがやけに軽そうに見えた。誰もぼくを見ていない。信号待ちの人も、自転車で通り過ぎる高校生も、みんな自分の行く先だけを見ている。
なのに、ここで立ち止まっている自分だけが妙に目立っている気がした。
ガラスに、ぼくの姿がうっすら映る。水色のシャツ。黒い半ズボン。四角いランドセル。ショーウィンドウのワンピースの横に、自分のかっこうが重なる。そのちぐはぐさに息が浅くなるのに、目は離れなかった。
ぼくは肩紐を握り直した。手のひらに少し汗がにじんでいる。このまま通り過ぎることもできる。今日はただ見つけただけにして、明日には忘れるふりもできる。
けれど、一歩だけ近づいた。
水色のワンピースは、思っていたより飾りが少なかった。特別高そうにも見えない。ただの子ども服だ。でも、そのただの服から目が離せない。
ここなら、と思った。
それは希望というほど大きくはなかった。ただ、胸の奥の、ずっと奥のほうに小さく灯る感じだった。不安は消えていない。知らない町はまだ知らないままだ。けれど、全部が最初から閉まっているわけじゃないのかもしれない。
ガラスに映った自分の背中には、まだランドセルがある。
その重さを感じたまま、ぼくはもう少しだけ、ショーウィンドウの前に立っていた。

